解とは、文字通り理解を意味し、理の面から入り、思考によって消化することを指します。これには想像、推論、整理、帰納、推測などが含まれ、実証前の準備作業と言えます。もし準備作業が過剰になり、観行の深化を妨げると、実証や親証が困難になります。要するに、解門は理から入るものであり、理の消化と解消です。これは仏道修行において最も容易で労力の少ない入手法であり、初心者は皆この段階に留まり、先へ進めません。
行とは、文字通り行動を意味し、理を理解・掌握した後、実証を目指して取る行動です。例えば観行、参究、尋伺などが挙げられます。行門は具体的な行動に関わり、行動によってのみ目標は達成されます。解はまだ実践に移されておらず、行動力がなく、目標を達成できません。実施手順には、戒律の保持、禅定の修習、悪を断ち善を修める、煩悩を降伏する、業障を懺悔する、遮障を取り除くことなどが含まれ、その後に定の中で参禅、参究、体悟、観行など様々な実践方法を行います。これは仏法を実証・親証するために不可欠な実践過程であり、「実践は真の知恵を生む」という道理はここにあります。この過程がなければ真の知恵は生まれず、何かを知っていても真の知恵とは言えません。
多くの人は解と行をよく理解しておらず、区別がつかず、解門を究極の行門や最終的な入道の場と誤解し、自ら悟りの門を塞いでしまい、非常に惜しいことです。解は想像に例えられ、行は観に例えられます。観と想像は大きく異なり、想像は全くの無から境界を付け加えることで、俗に言う「脳内補完」に相当し、境界が自ずと現れることはなく、ましてや三昧の境界が現れることはありません。たとえ想像が完全に正確であっても、観えたことにはなりません。一方、観は修行が熟した時に境界が自然と現れ、自発的に呈示され、ありのままに境界を見ることであり、境界がどうあるかを見た通りに認識し、余計なものを付け加えず、しかも三昧の境界が伴って現れます。
悟っていないのに悟ったと主張する人のほとんどは、以下のような状況です。想像した法を観えて実証した法と誤解しており、誤りが甚だしいです。現量観察と想像の区別は、おそらく100%の人が明確にできません。そのため、自ら悟ったと思い、他者も悟ったと認める人のほとんどは、ほぼ100%想像の要素が多く、現量観察したものではなく、観行の修行が著しく不足しています。私が「全ての悟りは100%偽物」と言わなかったのは、言葉に余地を残すためであり、また言葉を慎み、人を傷つけず、ましてや人を敵に回して皆に恨まれることを望まないからです。
実証と親証を経て初めて解行が相応します。自ら解したことが実証され、自ら証したことと解したことが一致します。実証後には疑いの情が断たれ、結縛が断たれ、粗い煩悩が断たれ、身口意の行いが理に相応し一致します。事と理が初歩的に円融し、互いに背かず、語ることは理に適い、行うことは理に適い、心と言葉が同じであり、身心が一致します。言うことと行うことが矛盾し、身口意の行いが理に背く現象は存在せず、解行が相応しない時のみそのようになります。それは実証がなされていないことを示しています。
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