衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2022年08月20日    土曜日     第1 回の開示 合計3668回の開示

解門と行門の違い

解、文字通りの意味は理解であり、理の側面から入り思考によって消化することを指します。想像、推論、整理、帰納、推測などが含まれ、実証前の準備作業と言えます。ただし準備に過度に傾倒すると観行の深化を阻害し、自ら悟りを証得することが困難になります。要するに解門は理から入る門であり、理の消化と融解が目的です。これは仏道修行において最も容易で労力の少ない入門方法であり、初心者は皆この段階に留まり突破できません。

行、文字通り行動を指し、理を理解掌握した後に実証を目指して取る行動です。観行、参究、尋伺などが該当します。行門は具体的な実践を伴い、行動によってのみ目標を達成できます。解は未だ実践に至らず行動力を欠くため、目標達成には至りません。実践手順には戒律保持、禅定修習、悪を断ち善を修める、煩悩を調伏する、業障を懺悔する、遮障を除去するなどが含まれ、さらに禅定の中で参禅・参究・体悟・観行など多様な実践方法を経ます。これこそが仏法を自ら証得するために必須の過程であり、「実践が真知を生む」という道理もここにあります。この過程を経なければ真知は生まれず、仮に何かを知ったとしても真知とは言えません。

多くの人は解と行を明確に区別できず、解門を究極の行門や最終的な入道の場と誤解し、自ら悟りの門を塞いでいます。これは誠に惜しむべきことです。解は想像に例えられ、行は観に例えられます。観と想像は大きく異なり、想像は完全に無から境界を構築する行為で、俗に言う「脳内補完」に相当し、境界が自ずと現前することはなく、ましてや三昧境界が現出することはありません。たとえ想像が完全に正確であっても、観を得たことにはなりません。一方、観は功夫が熟した時に境界が自然に現前し、ありのままに現象を照見するもので、余分な要素を加えることなく、三昧境界を伴って現れます。

未悟の者が悟りを語る場合、ほぼ例外なく以下の状況に該当します。即ち、想像した法を観得した実証的法と誤認する深刻な誤解です。現量観察と想像の差異を識別できる者はほぼ皆無と言え、自他共に悟りを認める者のほぼ全員が想像の要素を多分に含み、現量観察によるものではありません。観行の功夫が著しく不足しているのです。私が「全ての悟りが100%偽悟である」と断言しないのは、言葉に余地を残す配慮であり、人を傷つけず、恨みを買わないための慈悲的配慮によるものです。

実証と自証を経て初めて解行相応が成立します。自ら解した内容が実証され、証得した内容が理解と符合します。実証後には疑情が断絶し、結縛が断たれ、粗大な煩悩が断じられます。身口意の行いが理に相応し、事と理が初歩的に円融して矛盾せず、語ることは理に適い、行いは道理に叶い、心と言葉が一致し、身心が一体となります。言行不一致や身口意の行いが理に背く現象は解行不応時に生じるもので、これは実証が未だ成されていない証左です。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

意根が常に審査し思量するのは脳の中にあるのか、それとも脳の外の虚空にあるのか

次の記事 次の記事

意根と五識および内外五塵との関係

ページのトップへ戻る