衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
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仏道無上誓い成す

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日常開示

2022年07月30日    土曜日     第1 回の開示 合計3661回の開示

四正勤の修行(六)

瑜伽師地論 第二十九巻(六)

原文:策励とは、既に得たるものを現前せしめるが故に、勤精進を発するとは、未だ得ざるものを得せしめんが為なり。また策励とは、已に生じた善を住せしめ、忘失せざらしむるが故に、勤精進とは、修満せしめるが故なり。また下品・中品の善法において、未生のものは生ぜしめ、已生のものは住せしめ、忘失せざらしむ、これを策励と名づく。上品の善法において、未生のものは生ぜしめ、已生のものは乃至修満せしめる、これを勤精進と名づく。

釈:策励とは、既に獲得した善法を現前させ、身口意の行いに顕現させる為に、勇猛に自らを鞭撻激励することを指す。勤精進とは、未だ得ていない善法を速やかに得させる為に、勤勉に精進することをいう。策励はまた、已に生起した善法を堅固に持続させ、忘却させないようにすることを含む。勤精進は、已に生起した善法を速やかに修習完成させる為に、勤勉な精進心を生じさせることを指す。

さらに、下品・中品の善法については、未だ生じていないものは生ぜしめ、已に生じたものは堅固に持続させて忘却しないようにすることを策励という。上品の善法については、未だ生じていないものは生ぜしめ、已に生じたものは堅固に持続させ、更に修習完成させることを勤精進という。

原文:策心というは、修するにシャマタの一境性において、正勤方便し、未だ生ぜざる悪不善法を生ぜしめず、広く説けば乃至已に生じた一切の善法を住せしめ、忘失せず、修満せしむるが故に、此の因縁によりて其の心が内に極めて略下劣なるか、或いは下劣を恐るるを観見し、爾の時に随って一つの浄妙なる挙相を取り、殷勤に策励し、其の心を慶悦せしむ、これを策心と名づく。持心とは何か。挙を修する時に其の心が掉動するか、或いは掉動を恐るるを観見し、爾の時に還って内に略摂し、シャマタを修する、これを持心と名づく。

釈:策心とは、止を修する際に、一境に専住するシャマタにおいて、方便力を以て精勤し、未だ生じていない悪不善法を生起させず、已に生じた悪不善法を滅除し、広く説けば已に生じた一切の善法を堅固に持続させ、忘却せず修習完成させることを指す。この修止の因縁により、自心が極めて昏昧であるか、或いは昏昧を恐れる状態を観察した時、適宜清浄勝妙な相を選んで自らを激励し、心に歓喜を生じさせることを策心という。持心とは、挙相を修する際に自心が動揺するか、或いは動揺を恐れる時、内に収攝して心を静止させることを指す。

ここで言う策心とは、禅定修習中に心が昏沈していると気付いた時、観を修して対治し、心を観対象に集中させて昏沈と掉挙を防ぐことをいう。観対象は多数あるが、現在修している法と相同じ或いは類似の内容を選び、注意力を集中させる。観対象が明確で殊勝であればある程、興味を引き注意力を維持し、精力を喚起して昏沈を払拭できる。観修中に心が散乱していると気付いた時は観修を止め、心を一境に静止させた後、再び観修を続ける。

止観を修習する際には、偏って止のみ、或いは観のみを修するのではなく、自心の状態に応じて選択すべきである。修行は定慧等持・止観双運を要し、定が過多で心が沈滞する時は正念を提起して観を増やし、心が専一できない時は止を多く修する。止の中に観を含め、観を定中に置くことが必要で、どちらか一方に偏れば善果を得られない。

——生如法師の開示
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