色身は四大の種子によって形成されたものであり、如来蔵に内在する四大の種子である。死の際、色身における四大は散滅するものであり、これによって色身は滅して機能を継続できなくなる。臨終の際、四大は分解分散し、種子は如来蔵に回帰する。この過程は一瞬で完了するものではなく、その所要時間は善悪の業によって異なる。四大の分解とは、色身における四大の種子が徐々に色身から退出し、色身の作用が段階的に失われ、次第に硬化していくことを指す。この過程を方便的に「如来蔵が色身から退出し、もはや色身を保持せず、色身が生命力を失う」と表現する。
如来蔵は形も相もなく、その色身への進入や退出を誰も目にすることはできない。四大の種子もまた無形無相であり、四大の種子が色身を形成し退出する分解過程を目撃できる者はいない。ただ色身の変化を通じて、種子の変化作用と如来蔵の作用を観察するのみである。色身に如来蔵の作用がある限り、寿・暖・識が存在する。如来蔵がなければ寿暖識も存在しない。臨終時、寿命は徐々に消滅し、身体の温度も次第に失われ、冷たさが増すにつれて硬化が進む。識は漸次微弱化し、心はますます混濁し、無知無覚の状態に至って中陰身に入る。如来蔵が最終的に色身から離脱する場所、すなわち四大が最後に分解する場所こそが、寿命が最終的に留まる場所であり、体温が最後に消える場所である。これが後世に生じる業道を決定する。この身体の最終地点が上方であればあるほど、後世に向かう業道はより善となり、逆であればより悪となる。
衆生が目に見えない法こそ真実であり、目に見える法は虚妄である。虚妄を見て真実を見ないことを無明と称する。もし時処を超えて常に真実を見ることができれば、世間に何事も存在せず、一切は空であり、一法も情に当たるものはない。世間も存在せず、心は全て自性に回帰し、智慧を具足する。これを智と称し、智は情ではなく、有情に智は無い。
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