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日常法話

2022年07月22日    金曜日     第1開示 合計3659開示

識蘊を正しく理解するには(三)

『持世経』原文:識蘊は虚妄にして実体なし。倒錯に相応す。見・聞・覚・知の法に因りて起こる。この中に実の識なるものは存在せず。もしこの如く実観できなければ、或いは善なる識を起こし、或いは不善なる識を起こし、或いは善不善なる識を起こす。この人は常に識に随って行じ、識の生ずる処を知らず、識の如実相を知らざるなり。

釈:識蘊は虚妄なるもの、実有の法にあらず、妄見の法にして、無中に有を見る倒錯心と相応し、能見・能聞・能覚・能知の法に因りて生起す。いわゆる見聞覚知の中に、実在の識心をもって見聞覚知するものは存在しない。もしこの如く識蘊を如実に観察できなければ、善法を造作する識蘊を生じ、あるいは不善法を造作する識蘊を生じ、あるいは善法と不善法とを造作する識蘊を生ずる。かくの如き人の心は常に識蘊に随って流転し、識蘊の出生する処所を知らず、識蘊の真実の相貌を知らない。

原文:持世よ、菩薩摩訶薩は此の中において、かくの如く正観し、識蘊は虚妄の識より起こることを知る。いわゆる見聞覚知の法中の衆因縁によって生じ、法なきに法の想いを生ずるが故に、識蘊に貪着するなり。これら諸の菩薩が如実に観察する時、識蘊は虚妄にして実体なく、本より以来常に生ずる相なきことを知る。非蘊なるものこそ識蘊たるを知り、想蘊は識蘊なりと知り、幻なる蘊こそ識蘊なりと知る。

釈:持世よ、菩薩摩訶薩は見聞覚知の中において、能く如実に識蘊を正観し、識蘊が虚妄の識より生起することを了知する。すなわち見聞覚知の法において、衆多の因縁によって識蘊が生じ、本無法の中に法の念想を生じたが故に、識蘊に貪着するのである。諸大菩薩がかくの如く如実に観察する時、識蘊は虚妄不実にして、本より以来全く出生したことのないものであることを知る。また識蘊本体の相貌なきものこそが所謂識蘊であることを知り、心念思想の流転する想蘊もまた識蘊であることを知り、種々なる虚妄なる蘊・入・法こそが所謂識蘊であることを知るのである。

原文:譬えば幻術が作り出した人の識の如し。内にも在らず、外にも在らず、また中間にも在らず。識の性質もまたかくの如し。幻の性質の如く虚妄の縁より生じ、憶想分別より起こり、実事として有ることはなし。絡繰り人形の如く、識もまたかくの如し。倒錯より起こり、虚妄の因縁和合の故に有るなり。かくの如く観察する時、識は皆無常・苦・不浄・無我なることを知り、識の相は幻の如く、識の性質を観るに幻の如し。

釈:譬えば幻化不実の人の識心は、内に在らず、外に在らず、また内外の中間に在らず。識心の性質もまたこれと同じく、幻化性のものであり、虚妄の縁法によって出生し、憶想分別より生起し、実在の分別性はない。恰も仕掛けを施した絡繰り人形の如く、識蘊もまたこれと同じく、倒錯の心行より生起し、虚妄の因縁が和合して初めて識蘊の作用が有るのである。かくの如く正しく識蘊を観察する時、識蘊は全て無常・苦・不浄・無我なることを知り、識蘊の相貌が虚妄なることを知り、識蘊の性質を観察するもまた虚妄不実なることを知るのである。

——生如法師の開示
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