問:識心は色身の内外や中間に存在しないのに、なぜ六識が大脳の勝義根における根塵の接触点で生じると言えるのですか?
勝義根を持つ衆生にとって、六識が生じる前提条件と必要条件は根塵が接触した後であり、その後で六識が生じます。根塵の接触には、外五根と外五塵の接触、意根と外法塵の接触、さらに内五根と内五塵の接触、意根と内法塵の接触があります。外五塵と法塵は六識が触れることはできません。なぜならこの時点では六識はまだなく、七八二識のみが存在するため、外根塵の接触では六識は生じません。内根塵の接触のみが六識を生じさせ、六識が了別するものはすべて大脳勝義根内の六塵です。一方、意根が了別するものには内塵だけでなく外塵も含まれます。この外塵は如来蔵が最初に生じさせた本質境ではなく、本質境の後に如来蔵が変現させた塵境であり、意根がこれを了別します。この外塵が勝義根に入って内塵となった時、意根が詳細に了別しようとする場合、あるいは何らかの造作を行おうとする場合にのみ六識が生起し了別が行われます。そうでなければ、内六塵が存在し六根と接触していても、六識は生起せず了別も行われません。
六識は大脳の勝義根において生じますが、六識は形も相もなく、勝義根の内外や中間に存在するわけではなく、場所があると言っても無場所に等しいのです。もしそうでなければ、大脳勝義根を一片ずつ切り分ければ六識を見つけられるはずですが、実際には大脳を粉砕しても六識を見ることはできません。意根も同様に形も相もなく、あらゆる塵に触れ、内外の塵を了別しますが、内外の塵の上には存在しません。根が塵に触れる「触」は物質的な意味での接触ではなく、識心も物質ではありません。物質と非物質の触、あるいは非物質同士の触は、私たち一般人には理解も想像もできず、往々にして物質同士の接触のようなものと誤解されますが、実際にはそうではありません。したがって識心は色身の内外や中間に存在しないのです。
もし非物質的属性を持つ「触」を理解できれば、如来蔵と一切法の触についても容易に理解でき、如来蔵が一切法の上にありながらも一切法の内外や中間には存在しないことを知ることができるでしょう。もし世俗法における「触」という概念を離れることができれば、八識を理解し証得することはさほど困難ではありません。
回向文:私たちのネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳をもって、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向いたします。世界の平和と戦争の終結を祈願します。烽火が起こらず、干戈が永遠に止みますように。一切の災難がことごとく消退しますように。各国の人民が団結し助け合い、慈しみの心をもって互いに接しますように。風雨順調で国泰民安となりますように。全ての衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生をせず、善縁を広く結び、善業を広く修め、仏を信じ学び、善根が増長しますように。苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開きますように。仏教が永遠に興隆し、正法が永住しますように。三界の火宅を変じて極楽の蓮邦と成らんことを。
2
+1