瑜伽師地論第二十九巻(五)
原文:未だ生ぜざる一切の善法に対し、生ぜしめんが為に欲を生ずるとは、未だ得ず、未だ現在前にあらざる所有の善法に対し、得せしめんと欲し、現在前にあらしめんと欲して、心を発して希願し、猛利を発起して求めて獲得せんとする欲、現前せんとする欲を生じて現在前にあらしむ。これを名づけて、未だ生ぜざる一切の善法に対し、生ぜしめんが為に欲を生ずると為す。
釈:未だ生じていない一切の善法に対し、それを生じさせるために希求の願いを起こすこと。すなわち、未だ得ていない、未だ現前していない全ての善法に対し、それを得ることができ、現前にあらしめたいと心に願い、猛利な願いを起こし、善法を獲得しようとする欲求、善法が現前することを求める欲求を起こし、最終的に善法を現前にあらしめることを指す。これを「未だ生ぜざる一切の善法に対し、生ぜしめんが為に欲を生ず」という。
原文:已に生じたる一切の善法に対し、住ましめんと欲し、忘失せしめざらんと欲し、修円満せしめんと欲して欲を生ずるとは、已に獲得し、已に現在前にあらしめたる所有の善法を、是れ已生の善法と名づく。此の善法に対し已に得て失わず、已に得て退せず。此に依って説いて言う、住ましめんと欲すると。此の善法に対し明らかに現前し、闇鈍の性無し。此に依って説いて言う、忘失せしめざらんと。此の善法に対し已に現前を得て、数数に修習し、成満究竟せしむ。此に依って説いて言う、修円満せしめんと。此の善法に対し心を発して希願し、猛利なる求を発起し、堅住を求めんとする欲、忘れざらんとする欲、修満せんとする欲を生じて現在前にあらしむ。是れ名づけて、已に生じたる一切の善法に対し、住ましめんと欲し、忘失せしめざらんと欲し、修円満せしめんと欲して欲を生ずると為す。
釈:已に生じた善法に対し、善法を堅固に持続させ、善法を忘失せず、その善法を円満ならしめるために希求の願いを起こすこと。已に獲得した全ての善法、既に現前している全ての善法を、已生善法という。得た善法を再び失わず、退転しないことを、善法の常住を希求するという。已有の善法に対し心中明らかに自覚し、曖昧さが無いことを、善法を忘失せしめないという。已に獲得した善法に対し絶え間なく修習し、善法を円満究竟ならしめることを、修習を円満ならしめるという。
善法に対し希求心を起こし、猛利な求道心を起こし、獲得と保持を誓願し、堅固に善法に安住して退失・忘却せず、善法を修習して円満にしたいという欲求と願いを指す。これを「已に生じたる一切の善法に対し、住ましめんと欲し、忘失せしめざらんと欲し、修円満せしめんと欲して欲を生ず」という。
善法が堅固でない時は、善となったり不善となったりし、善縁に遇えば善となり、悪縁に遇えば不善となる。故に縁に触れ境に対する中で、常に自心を省み、常に自らを励まし、善心・善念・善行を保持し、善法が堅固不退転となり円満無碍となるまで続けなければならない。悪不善の心が善心に変わり、脱胎換骨して初めて道を証し聖者となる。これが四正勤の修行過程であり、非常に容易ではない。衆生の心は頑固で変化し難く、本性は改め難いからである。一切の修法は、その心を降伏し変化させるためにあり、心が究竟清浄となれば仏法に学ぶところ無く、無学の果地仏となる。心は万物の主であり、心が変われば万物もそれに従って全て変わる。故に心の根を治めることが正修・真修であり、心を修めず理のみを学ぶことは見せかけに過ぎない。
回向文:我々のネットワークプラットフォームにおける一切の弘法と共修の功徳を以て、法界の一切衆生に回向し、世界の民衆に回向いたします。世界の平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、干戈永遠に止むことを。一切の災難ことごとく消退せんことを。各国の人民が団結し互助い、慈心をもって相い向かうことを祈願します。風雨順調に、国家安泰・民衆平安ならんことを。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ学び、善根を増長し、苦を知って集を断ち、滅を慕いて道を修め、悪趣の門を閉じ、涅槃の路を開かんことを。仏教の永遠の興隆を祈願し、正法の永住を祈願します。三界の火宅を極楽の蓮邦に変ぜんことを。
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