応無所住而生其心とは、一切の縁に応じながら一切の縁に住せずにその心を運作させるという意味である。七識が有所住でその心を運作させているとき、第八識は永遠に無所住で運作しており、どんな縁に出会ってもそうである。第六識・第七識が断我見と証悟を経て以後、無明煩悩を断除すれば、縁に応じて無所住に運作するようになる。これには過程と範囲があり、無明が薄くなるほど、煩悩が軽微になるほど、第六識・第七識が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になるほど、縁が第六識・第七識に与える影響は小さくなり、縁に応じるほど無所住となる。なぜ第八識が縁に応じるとき無所住なのか。第八識は世間の無明煩悩の心ではなく、縁の世間相を知らず分別もしないので、世間相を執取 (upādāna) せず、心が無所住となるからである。
「応」は応対するという意味であり、「生」は無から有へ出生するという意味ではなく、絶えず運転するという意味である。第六識・第七識が縁に応じて無所住であろうとすれば、縁の実質を見破った後でなければ、実現できない。見抜くほど透彻で究竟であるほど、無所住となる。縁は空であるから、何の必要があって住着して煩悩を生じさせるのか。何の必要があって執取 (upādāna) するのか。このように見破った後は心が空となって放下し、世間法の中を運転するとき、無所用心となり、もはや法相を執取 (upādāna) せず、世間法は有もまた無に等しく、心は清く無碍となる。無明が重いほど、世間法を重んじ、心はより有所住となる。
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