衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2022年06月13日    月曜日     第1開示 合計3644開示

現観とは

瑜伽師地論第三十四巻原文:能く知る智と知られるべき境とが和合して乖離なく、現前に観察するがゆえに、現観と名づく。ちょうど刹帝利と刹帝利が和合して乖離なく、現前に観察することを現観と名づくがごとし。婆羅門等もまたしかるべしと知るべきである。

解釈:真諦の法を能く知る智慧と、知られるべき四聖諦の理とが和合して一体となり、両者に乖離がない。このような現前の観察を現観という。例えば刹帝利と刹帝利が和合して乖離なく、互いに違逆しない。このように現前に観察することを現観という。婆羅門を現前に観察するのもまた同様である。

能く知る智とは、法を見、法を知り、法を証する第六識・第七識を指し、如実の観察智慧を具えている。知られるべき境とは、第六識・第七識が観察する理法を指し、例えば四聖諦の理や般若の法などである。智と境が和合して一体となり、違逆することなく、このような現前の観察を現観という。

和合して乖離なく、互いに違逆しないことは、主に第六識・第七識の智慧の境界、あるいは智慧の次元による。智慧が十分に正しく法を観察し認識すれば、理法と乖離せず、しかも現前の観察であって、推測や推理、想像、分析ではない。現前に存在する法が事実そのままであることを、現量で観察し現量で認識する。これを現観という。現観の時に、法を証得し、法智と類智を獲得する。現観でないものには法智も類智もなく、果証もない。

如何にして法に対する現前の観察か非現前の観察かを区別するか。例えば苦諦を観察する場合、五蘊は苦であると感じ、五蘊が苦であることを現前に観察した後、内心の苦に対する認識は非常に深く、時処を超えて心心念念に五蘊の苦を感知し、かつ心心念念に苦から逃れ苦を滅したいと願う。このような心の状態が無間作意を形成し、間断がない。無間作意とは、意根から生じる作意であり、意根が苦を感知したことで、単に意識の表面に留まるものではない。これが現前観察の結果である。

非現前観察の苦は、無間作意を形成しておらず、断続的で時々忘れられ、依然として楽を追求し、出離心が強くなく、覚悟性も高くなく、行動力はさらに劣る。楽の境が現前すると、自己を見失い、楽の境に深く陥って苦を忘れ、将来への期待は依然として大きく、楽を得て保持できると妄想する。このように一方で苦を感じつつ他方で楽を追求する、心と行為が相反する状態は、苦を現前に観察しているとは言えない。非現観の人は弁別する智慧力が不足しているため、往々にして自己のこの状況を現量観察であり法を実証したと誤解するが、実際には実証にはまだ相当の距離がある。

非現前観察の人の普遍的な特徴は、煩悩が除かれず、無明が断たれず、言行が一致せず、表裏が違い、言うことと行うことが異なり、東を指して西へ向かい、口では空を説きながら行為では至る所で有に執着し、一処として空ではない。口では無我を説きながら時処を超えて我であり、隠そうとしても隠しきれない。実証がないため、実証後の身心の境界を知らず、自己の思惟と行為がすべて実証の境界と相反していることも知らない。それゆえ根本的に凡夫の特徴を覆い隠せないのである。

回向文:我々のネットワークプラットフォームにおけるすべての弘法と共修の功徳を以て、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向いたします。世界の平和を祈念し、戦争が起こらず、烽火が興らず、干戈が永く止み、一切の災難がことごとく消退することを祈念します。各国の人民が団結し互助い、慈心をもって相い向かい合い、風雨順調で五穀豊穣、国家安泰で民衆平安であることを祈念します。一切の衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ仏を学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開くことを願います。仏教が永く興隆し、正法が永く住することを祈念し、三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを!

——生如法師の開示
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