瑜伽師地論第三十四巻原文:滅諦の相を正しく覚了した後、更に真の対治道を正しく覚了する。知るべき境に対して能く通じて義を求め、能く実に義を求めるが故に。四門に由って義に随順し転ずるが故に。一貫して能く涅槃に趣く義あるが故に。それ故に道・如・行・出と名付けて説く。かくの如き行者は四種の行によって道諦の相を了知する。
釈:道・如・行・出の四種の行によって道諦を明らかにする。行者が滅諦の相を如実に正しく覚悟した後、最後に如実に正しく修する道を覚悟し、苦を滅して解脱を得る。苦を滅し集を断つために修する道を道と名付ける。知るべき境に対し、能く通達してその真実の義を求め得るが故に、能く如実に真実の義を求め得るが故に、これを如と名付ける。修道の過程において、その身口意の諸行が苦空無常無我の義に随順し、もはや苦諦が集起する苦行に背かないことを行と名付ける。修道の後、心行が次第に寂滅し、不断に涅槃に趣き、生死を出離することを出と名付ける。このように瑜伽行者は道・如・行・出の四種の行によって道諦の相を明らかにする。
真の対治道とは何を指すか。道とは方法・手段・道筋を指し、対治とは心中の貪瞋痴無明の煩悩を対治することを指す。無明とは苦を知らず、苦集を知らぬことである。故にこの不知を対治し知に転じる。若し無明無ければ対治を要せず。この中の過程が即ち修道であり、戒定慧・三十七道品を修し、四聖諦を思惟観行することである。これが道行である。
如行とは、心を苦空無常無我の真理・法理に相応せしめ、知るべき境たる四聖諦の法に対し、能く通達して深くその真実理を思惟し、能く如実に法理を思惟観行し、知るべき境の内包する正理を了達して四聖諦の真理を証得することである。行行とは、如行によって無明を断つ基礎の上に、心行が転変し、その所有する心行が認知した真理に随順し、苦空無常無我の真実理に背かぬことである。出行とは、修道を通じて煩悩を断除し、身口意の行が清浄となり、もはや五蘊世間に攀縁せず、寂静無為となり、身心解脱して涅槃に趣き相応し、三界を出離し生死輪廻の苦より解脱することである。
以上の四種の行によって知るが如く、修道の過程において戒定慧が増長し、五蘊世間に対する認知が真実理に契合し、無明が薄らぎ、煩悩が軽減し、心行が聖道に背かず、身心世界が次第に転変し、一定の程度に転じた時、道に相応し聖賢に相応して聖道を証得する。果を証した後に初めて徐々に身心を転換するのではなく、若し身心を転換して聖賢に相応せしめなければ聖賢となることができない。恰も学生が試験に合格せねば入学できぬが如く、その理同じである。
回向文:我々のネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を以て、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向し、世界平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、干戈永く止み、一切の災難ことごとく消退することを祈る。各国人民が団結互助し、慈心をもって相対し、風雨時に順い国泰民安なることを祈願する。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、善縁を広く結び善業を修め、仏を信じ学び善根を増長し、苦を知り集を断ち滅を慕い道を修し、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開くことを願う。仏教が永く興隆し正法が永住し、三界の火宅を変じて極楽の蓮邦となることを祝祷する。
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