霊は敏感で機敏であり、念を離れるとは一時的に思考や念頭から離れることである。このような知覚には意識的なものもあれば、意根に由来するものもある。意識が念を離れるのは比較的容易であるが、意根が念を離れるのは相対的に難しい。しかし不可能ではない。なぜ意識は念を離れることができるのか?第一に、意識自体が境界を分別しようとする欲望を持たず、心に懸念する事柄もない。第二に、意根にも粗大な思考や念頭がなく、欲望や考えがなく、塵境に攀縁しない。そうして初めて意識を動員して思ったり念じたり想ったり造作したりすることがなくなる。
一方、意根の特に微細な思考や念頭は、意識の参与なしに身口意の行いを現出させ、意識もそれらを発見したり参与したりする力を持たない。このとき意根はやや清浄な状態、すなわち禅定状態、無欲無求の状態にある。したがって、意識が念を離れた状態にあるときは、必ず意根が清浄で禅定の中にあるのであり、禅定の深浅や時間の長短は問わない。
実際このときも微細な念は存在する。念がなければどうして知ることができるのか?ただ、境界に対して非常に精通しているときは、努力して分別しなくても知ることができ、このとき思考活動は非常に微弱である。これを「念を離れた霊知」と呼ぶ。離念霊知という言葉は仏典に由来するものではなく、仏典にはこれについて具体的な記述はない。すべて後世の人が自らの考えに基づいて提唱した概念であり、あまり正確ではない。これらを観察し弁別するには、非常に深い唯識の教養と観察力が必要である。
回向文:私たちのネットワークプラットフォームにおけるすべての弘法と共修の功徳をもって、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向する。世界平和を祈願し、戦争が起こらず、烽火が上がらず、干戈が永遠に止むことを。あらゆる災害がことごとく消退することを。各国の人民が団結して助け合い、慈しみの心をもって相対することを祈願する。風雨順調で五穀豊穣、国家安泰で民衆平安であることを。すべての衆生が因果を深く信じ、慈しみの心をもって殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じて仏法を学び、善根が増長することを。苦を知って集を断ち、滅を慕って道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開くことを。仏教が永遠に興隆し、正法が永く住することを祈願する。三界の火宅を極楽の蓮邦に変えることを。
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