衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2022年05月22日    日曜日     第2開示 合計3633開示

金剛経第三品の真実義

第三品原文:大乗正宗分

仏は須菩提に告げたまわく。諸々の菩薩摩訶薩は、かくの如くにして其の心を降伏すべし。所有一切の衆生の類、若しは卵生、若しは胎生、若しは湿生、若しは化生、若しは有色、若しは無色、若しは有想、若しは無想、若しは非有想非無想、我は皆な之をして無余涅槃に入らしめて滅度せしむ。かくの如く無量無數無辺の衆生を滅度せしめども、実に衆生の滅度を得る者なし。何を以ての故に。須菩提よ、若し菩薩に我相・人相・衆生相・寿者相あれば、即ち菩薩に非ず。

金剛経第三品の中心思想は、仏が菩薩に如何にして其の心を降伏させるかを教えることである。何故心を降伏させる必要があるのか。菩薩の心に我相・人相・衆生相・寿者相の四相があるからであり、四相ある者は真の菩薩ではない。菩薩は如何にして心を降伏させ、四相を滅除できるのか。仏は言う:たとえ四生九有の一切衆生をことごとく無余涅槃に度し入れても、汝が衆生を度したと思ってはならない、衆生が度されたと思ってはならない。法界には実に衆生もなく、我もないからである。我がない故に、我が衆生を度したと思ってはならず、衆生がない故に、無量無辺の者が汝に度されたと思ってはならない。かくして四相を滅除し、其の心清浄を得て、降伏されるのである。全文を通じて、衆生を無余涅槃に入らせることに重点を置いておらず、仮に汝が本当にこれほど多くの衆生を無余涅槃に度し入れたとしても、実際はそうではないということを示している。

もし人が我相を持てば、我は如何に如何にと考え、我は何を如何にすべきか、我は必ず何を如何にすべきかと考える。重点は全て彼のその「我」に置かれ、至る所で我を中心とし出発点として、我執は必然的に顕現する。

もし人が人相を持てば、人の善悪是非に執着し、かつ人々から離れられず、至る所で人々に依存して世俗的利益を得ようとし、人々を離れれば如何に安住すべきか分からなくなる。もし人が衆生相を持てば、自らが衆生に囲まれ追い求められることを希求し、衆生の首領となり、名声と利養を追い求める。もし人が寿者相を持てば、自らが長命百歳、不老長生、寿命延長を希求する。

而してこの四相は全て虚偽の相、幻化にして実体なき相であり、実有ではない。心に四相を存すれば我見を断ち、結縛を断つことができず、生死輪廻は止息できない。故に菩薩はまず我見を断ち四相を破らねばならない。四相を破った後、菩薩は初めて心を空しくし、無為を得て、福徳は広大無辺となり、この広大無辺の福徳をもって無上正等菩提を成就することができるのである。

或る者が問う:仏は何故無量無辺の衆生を無余涅槃に入らせるのか。全文を通じて見るに、仏は衆生を無余涅槃に入らせておらず、全文の主旨とその中の一言一句は大きく異なる。仏は衆生に法を学び経を読むには義に依りて語に依らずと教えている。義は完全なる一書・一章・一節・一段の中においてのみ、如実に現れるのであり、もしその中から一部分を抽出すれば、その意味は歪められてしまうのではないか。経典を読むには仏経の全貌と主旨を完全に充分に理解せねばならず、断章取義や断句取義をしてはならず、義に依りて語に依らず、さもなければ三世諸仏の冤となる。

回向文:我々のネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳をもって、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向し、世界平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、干戈永遠に止むことを願う。一切の災難、ことごとく消退せんことを。各国の人民が団結し互助い、慈心をもって相い向かい合うことを祈願する。五穀豊穣、国泰民安を願う。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺さず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ仏を学び、善根増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ、涅槃の路を開くことを願う。仏教が永く興隆し、正法が永く住することを祈願する。三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを。

——生如法師の開示
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