衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2022年04月07日    木曜日     第1開示 合計3607開示

瑜伽師地論十二因縁釈(十四)

原文:问。如经中说。诸业以贪嗔痴为缘。何故此中。唯说痴为缘耶。答。此中通说。福非福不动业缘。贪嗔痴缘。唯生非福业故。

解釈:問:経中所説のように、衆生のすべての業行は貪瞋痴を縁として造作されたものであるのに、なぜここでは愚痴のみを縁として説くのか。答:ここでは福行・非福行・不動行の三種の業縁をすべて概括して無明愚痴を縁として説いたのであり、貪瞋痴を縁としては非福業行のみが生じるからである。

貪瞋痴の煩悩を縁とすれば、必ず非福の悪業を造作し、福業や清浄な不動業を造作することはない。しかし無明を縁とすれば、三種の業行はいずれも造作され、非福の悪業に限定されない。無明ゆえに善を行う人は多く、世間の苦と空を了達しないのである。

原文:问。身业语业。思所发起。是则行亦缘行。何故但说。无明缘行。答。依发起一切行缘而说故。及依生善染污思缘而说故。解釈:問:身業と語業は意根の思心所によって引き起こされたものであるから、行もまた行を縁とするはずであり、身行・語行もまた行に縁して生じるのに、なぜ無明縁行のみを説くのか。答:これは、一切の行(意根の行=思心所を含む)を発起する縁に依って説いたのである。一切の行はすべて無明によって起こり、意根の思は無明があってこそ働き、それによって身行と語行が生じたのである。また、善の思心所と染汚の思心所を生じさせる縁に依って説いたからでもある。善を生じさせる縁も染汚を生じさせる縁もともに無明であるから、無明縁行と説くのであって、思心所の行が身行・語行を縁とするとは説かないのである。

——生如法師の開示
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禅定の中で観行(vipaśyanā-caryā)を行い、得られる結果は必ず現量の実証なのか?

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