衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2022年04月06日    水曜日     第2 回の開示 合計3606回の開示

禅定中の観行によって得られた結果は、必ず現量証となるのでしょうか?

定中の観行によって結果が現れる際、その結果は二通りの可能性があります。一つは意識単独による観行の結果、もう一つは意識と意根が共同で観行した結果です。意識単独の観行では決定的な作用を起こすことができず、意根も共に観行を成就して初めて決定的な作用が生じ、定慧等持の三昧が現れ、真実の智慧となるのです。

なぜ同じ定中の観行において二つの結果が生じるのでしょうか。これは定の深浅の差によるもので、摂受する識心の観行智慧が異なるからです。定の深浅には差があり、例えば初禅定と具足した未到地定、不具足で断続的な未到地定、さらに粗浅な定などがあり、持続時間も様々です。これにより観行智慧には大きな差が生じます。定が浅く未到地定が不具足な場合、意識の機能が大部分を占め、推理分析の作用が比較的大きく、意根の思量作用は極めて小さくなります。その結果得られる結論は現量ではありません。未到地定があっても毎回の持続時間が短く、観行が常に粗浅な段階に留まり深まらない場合、精細な観行智慧を得ることができず、得られた結果は牽強付会的で現量を伴いません。

禅定がこれほど重要であるにもかかわらず、ある者はただひたすらに定を修めることのみに専心し、悪を断ち善を修めることもせず、性障煩悩を除く方策も講じず、福徳を積極的に積むこともしません。福徳がなく性障が重いため、十数年二十年修めても依然として禅定を成就できません。反対に性障煩悩が軽微で、三宝を護持し見道の功徳を積み重ねている者は、禅定を修めれば直ちに心に適い手に応じ、数ヶ月で身体が順調に調い、定力が急速に増大し、他の者が二三十年かけて修めるよりも速く進みます。これを見れば修行は心を修めることにあり、坐する時間の長短にあるのではないことがわかります。もし心を修めず、煩悩が重く依然として性のままに振る舞い、業障が減るどころか増大するならば、どうして禅定を修持できようか。

回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳をもって、法界の衆生に回向いたします。世界の民衆に回向いたします。世界の平和と戦争の不起を祈願いたします。烽火起こらず干戈永遠に息み、一切の災難ことごとく消退することを。各国人民の団結互助と慈心以て相対することを祈願いたします。風雨時に順い国泰くして民安んずることを。一切衆生が因果を深く信じ慈心以て殺生せず、広く善縁を結び善業を修め、仏を信じ仏を学び善根を増長し、苦を知り集を断ち滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開くことを。仏教の永遠の興隆と正法の永住を祈願いたします。三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならしめんことを。

——生如法師の開示
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