禅定中の観行によって結果が現れる際、その結果は二つの可能性がある。第一に意識単独の観行によるもの、第二に意識と意根が共同で観行したものである。ただし意識単独の観行では決定的な作用を起こせず、意根も共に観行を成し遂げて初めて決定的作用が生じ、定慧等持の三昧が現れ、真実の智慧となる。
同じ禅定中の観行でなぜ二つの結果が生じるのか。これは禅定の深浅に差があるため、摂受する識心の観行智慧が異なるからである。禅定の深浅には例えば初禅定と具足した未到地定、不具足で断続的な未到地定、さらに粗浅な定などがあり、持続時間も様々であるため、観行智慧に大きな差異が生じる。浅い禅定や未到地定が不具足の場合、意識の機能が大部分を占め、推論分析の作用が強く、意根の思量作用は微弱であるため、得られる結論は現量ではない。仮に未到地定を得ても持続時間が短ければ、観行は常に粗浅な段階に留まり深まらないため、緻密な観行智慧を得られず、結果は牽強付会の域を出ず現量を伴わない。
禅定がこれほど重要であるにもかかわらず、ある者はただひたすら禅定を修め他を顧みず、悪を断ち善を修めることもせず、性障煩悩を除く修行もせず、福徳を積極的に積まない。福徳なく性障重き者は十数年二十年修しても禅定を得られない。逆に性障煩悩の軽い者が積極的に三宝を護持し見道の功徳を積めば、禅定を修めるや容易く、数ヶ月で身体が調和し定力が急速に増し、他者の二三十年の修行を凌ぐ。これにより修行の要は心を修めることにあり、坐禅の時間長短に非ざることを知るべきである。もし心を修めず煩悩重く性のままに振舞えば、業障は減じず却って増大し、どうして禅定を修得できようか。
回向文:当ネットプラットフォームにおける一切の弘法と共修の功徳を、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向す。世界の平和を祈願し戦争起こらず、烽火燃えず干戈永遠に止むことを。一切の災難ことごとく消退せんことを。各国人民が団結互助し慈心をもって相対し、風雨時に順い国泰く民安んずることを祈願す。一切衆生が因果を深く信じ慈心をもって殺生せず、善縁を広く結び善業を修め、仏を信じ学び善根を増長し、苦を知り集を断ち滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開かんことを。仏教の永き興隆と正法の永住を祈り、三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを。
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