衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2022年04月06日    水曜日     第1 回の開示 合計3605回の開示

瑜伽師地論十二因縁釈(十三)

原文:問う。何故に自体を説かず、自体の縁とするや。答う。彼の自体は、若し余の縁を得ずんば、自体の雑染において、増長すること能わず、亦損減することなし。是の故に説かざるなり。問う。何の因縁を以てか、福行と不動行とは、正しき簡擇の功力によりて起こるに、仍えて無明を以て縁と為すことを説くや。答う。世俗の苦因を了達せざるを以て縁と為し、非福行を起こし、勝義の苦因を了達せざるを以て縁と為し、福及び不動行を生ず。是の故に亦、彼を無明を以て縁と為すことを説く。

釈:問:何故に自体が自体の縁であると説かないのですか。答:ただ自体のみ存在し、他の縁がなければ、その自体の雑染は増長せず、また損減しないため、自体を自体の縁とは説かないのです。例えば無明も、他の縁がなければ、無明自体は増長も減少もしません。五陰が善悪の因縁に遇い、薫染を受けて初めて無明が増減するのです。

問:どのような因縁によって、福業の行と不動行は正しい法の簡擇による功徳力で生じるのに、依然として無明を縁とするのでしょうか。答:世俗の苦が生じる原因を貪瞋痴の縁と了達せず、非福の行業を造作し、勝義における苦の原因を無明の縁と了達せず、福行と不動行を造作するため、これら三つの行は全て無明を縁として生じると説くのです。

この箇所は、衆生が世俗の苦を充分に了知できないため福徳を損なう悪業を造り、勝義諦が示す空理を充分に了知できないため世間の福徳を増す善行と不善不悪の清浄不動行を造作することを説いています。衆生が福を修する善行は世間的有為の受用のためであって、出世間の清浄道業のためではない、これが無明です。外道が修する純粋な禅定のように、善も悪も行わず世間福を増減しない不動行も、解脱の真義を知らぬ無明によるものです。これは世間禅定の有為業行に執着し、生死を繋ぐ苦業に他ならず、解脱を得られません。

勝義空を了達した聖者は無明を破り、無為・無相・無作・無願の境地に住し、世間的利益のために福行を増幅・損減し不動業行を造作せず、仮に福行をなすも出世间仏道と衆生利益のためです。故に聖者は世間の名利・財色・地位を求めず、衆生と利を争わず、五蘊世間を空観し、心に求める所も得る所もありません。これに反するならば、心に空理を了達せざる証左です。

回向文:我々のネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を以て、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向し、世界平和と戦争の消滅を祈願します。烽火起こらず干戈永遠に止み、一切の災難ことごとく消退せんことを。各国人民が慈心をもって相助け合い、風雨時に順い国泰民安ならんことを。全ての衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生を断ち、善縁を広く結び、善業を修め、仏法を信じ学び善根を増長し、苦を悟り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開かんことを。仏教の永興と正法の常住を祈り、三界の火宅を極楽の蓮邦とならしめんことを。

——生如法師の開示
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