衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2022年03月14日    月曜日     第2開示 合計3587開示

過去現在因果経第三巻

原文:その時、太子はすなわち問うて言う。『我は今すでに汝の説くところを知る。生死の根本である。またいかなる方便をもってして、これを断つことができるのか。』仙人は答えて言う。『もしこの生死の根本を断たんと欲する者は、まず出家して戒行を修持すべきである。謙卑にして忍辱し、空閑の処に住し、禅定を修習せよ。欲と悪しき不善の法を離れ、尋伺あり(覚と観あり)、初禅を得る。覚と観を除き、定より生じて喜心に入り、第二禅を得る。喜心を捨て、正念を得、楽根を具足し、第三禅を得る。苦楽を除き、浄念を得、捨根に入り、第四禅を得る。無想の報いを得る。別に一師あり、この処をかくのごとく説いて解脱と名づく。定より覚めた後に、しかる後に方(はじ)めて解脱の処にあらずと知る。色想を離れ、空処に入る。有対の想を滅し、識処に入る。無量の識想を滅し、ただ一識を観じ、無所有処に入る。種々の想を離れ、非想非非想処に入る。この処を名づけて究竟の解脱とす。これ諸の学者の彼岸なり。太子、もし生老病死の患いを断たんと欲するならば、かくのごときの行を修学すべきである。』

その時、太子は仙人の言を聞き、心に喜楽せず。すなわち自ら思惟するに、その知見するところは究竟の処にあらず、永く諸の結使の煩悩を断ずるにあらず。すなわち言葉して言う。『我は今、汝の説く法の中に、未だ解せざるところあり。今問わんと欲す。』仙人は答えて言う。『敬って来意に従わん。』すなわちこれを問うて言う。『非想非非想処には、我ありとするか、我なしとするか。もし我なしと言わば、非想非非想と言うべからず。もし我ありと言わば、我は知ありとするか、我は知なしとするか。我もし知なきならば、すなわち木石と同じ。我もし知ありとするならば、すなわち攀縁あり。すでに攀縁あれば、すなわち染着あり。染着あるが故に、すなわち解脱にあらず。汝は粗なる結を尽くせりと雖も、自ら知らず細なる結なお存す。この故をもって、究竟と謂うなり。細なる結は滋長し、また下生を受く。この故をもって彼岸に渡るにあらずと知るなり。もし能く我および我の想を除き、一切を尽く捨つれば、すなわち真の解脱と名づく。』仙人は黙然たり。心に自ら思惟するに、太子の説くところは、はなはだ微妙なり。

解:仙人は涅槃の路を示すが、この路は却って涅槃の路にあらず。その路途中にはただ戒と定のみありて、解脱の慧がないが故である。定ありて慧なきは外道なり、解脱を得ず。解脱は心の解脱なり、心に智慧あってはじめて解脱を得る。解脱とは諸の結使煩悩を永く断じて余すところ無きをいい、ただ解脱の理論知見のみあって煩悩なお在るをもって解脱と称するのではない。

故に修行の中において、もし自らの煩悩が前と異なるところなく、しかも自らの理論知見を以て傲り、他人を蔑ろにするならば、実は煩悩具足の凡夫である。また故に修行の最初と最終とは、ともに無明を破り煩悩を断ずるにあり、ただ理論知見を得ただけで学仏と称することはできない。智慧あれば、すなわち無明なく、煩悩なし。煩悩あればすなわち無明あり、無明あればすなわち智慧なく、智慧なければすなわち生死に処して解脱せず。故に自らの修行の成果を検するは、無明煩悩の淡薄なるか否か、および淡薄の程度に在る。

回向文:私たちのネットワークプラットフォームにおけるすべての弘法と共修の功徳を以て、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向し、世界平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、干戈永く息み、一切の災難ことごとく消退せんことを祈願します!各国の人民が団結互助し、慈心をもって相い向かい、風雨順い時を得、国泰く民安んぜんことを祈願します!一切の衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺さず、善縁を広く結び、善業を広く修め、仏を信じ学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修し、悪趣の門を閉ざし、涅槃の路を開かんことを!仏教の永き興隆、正法の永き住持を祈願し、三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを!

——生如法師の開示
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