衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2022年03月11日    金曜日     第1 回の開示 合計3585回の開示

瑜伽師地論 第九巻十二因縁釈(十二)

さらに、無知、無見、現前の観察無きこと、心の暗黒、愚痴、および無明の闇、これら六種の無明の差別は、先に説かれた七種の無知事の次第に従って知られるべきである。後の二つの無知事(染浄愚と増上慢愚)を総合して一つとし、この最後の無明の暗黒を生起させる。さらに差別あり、すなわち聞・思・修によって成される三慧が対治する差別である。次第のごとく、前三種(無知・無見・現観無きこと)を説き、即ちこの対治する軟・中・上品の差別をもって後三種(暗黒・愚痴・無明の闇)を説く。かくのごとく対治の差別故、自性の差別故に、六種の差別を建立すべきことを知るべし。

釈:さらに、無知、正見無きこと、現前に観察できぬこと、心中の暗黒、愚痴、および無明の闇、これら六種の無明の差別は、先に述べた七種の無知事の次第に従っても知られるべきである。六種の無明と七種の無知事の後二つ(染浄愚と増上慢愚)を合わせて一つとし、六種の無明中最も深い無明の闇を生じる。さらに別の差別として、聞・思・修によって修められる三慧(聞慧・思慧・修慧)が対治する二種の無明の差別がある。次第に従えば、無明中の前三種(無知・無見・現観無きこと)を了知する。これら三慧が対治する初・中・上品の差別は、六種の無明中の後三種(暗黒・愚痴・無明の闇)である。さらに知るべきは、三慧の対治の差別およびこれらの法の自性の差別によって、六種の無明の差別が建立されることである。

聞・思・修の過程において、聞慧・思慧・修慧が生起する。これら三慧には差別があり、次第に深遠となる。最も力強い慧は修行によって得られる智慧であり、最も浅いのは聞法による智慧である。思惟による智慧は聞慧より深く修慧より浅い。故にこれら三慧が対治する愚痴も異なり、聞慧は無知を対治して「知」を得るが、単に知るのみである。思慧は正見無きことを対治して正見を得るが、正見を持つに至るのみ。修慧は現量観行無きことを対治し、現観の智慧を得て諸法を現量に観察できるようになる。この智慧が最も深く、心中の根本無明を破砕する。

無明は大別して六種の差別があり、浅きより深きに至る。浅い無明は破り易く、深い無明は破り難い。無知という最も浅い無明は、聞法するだけで破られる。聞法後に知を得る。無見という無明は、聞法後にさらに思惟を重ね、思惟後に正見を得る。現前観察無きことは、修行過程において禅定と観行の智慧が生起した後に破られる。しかし現観の智慧を得ても、なお心中には更に深い無明が残り、後の修行において諸法を実証して漸く破られる。最後の一品の無明の闇が破られた時、成仏する。故に聞・思・修の後に「証」が必須であり、実証して初めて一切の無明を破尽し、実証こそが仏道である。

修行には四段階あり、前三の聞・思・修に加え、最後の肝要なる「証」がなければならない。聞・思・修のみで証を得なければ、根本智を得ず、煩悩を断じず、無明を尽くさず、解脱を得られない。聞・思・修による智慧と証法による智慧は根本的に異なり、差異甚だ大きい。証法せずんば、無知・無見・現観無き前三の無明は対治できても、暗黒・愚痴・無明の闇という後三の深重なる無明は対治できず、これら後三の無明は衆生の心中に随眠し、知り難く除き難い。実証なければ大小乗の解脱も望み無し。

聞による慧は、意識の多聞を基に無知のみを解決する。法を知るは初歩に過ぎず、知法しただけで慢心を生じ、衆生を蔑む者もいる。ある者は聞慧を証慧と誤解し、大妄語業を造作する。思慧は知法を基に法を思惟し、更なる認識を得て智慧を生じる。しかしこれは意識の比量・非量の認識に過ぎず、根本問題を解決せず、浅薄な思慧を証慧と誤解し大妄語を造り、我慢を生じて増上慢人となる者もいる。

修慧は聞慧・思慧より遥かに勝れる。修とは何を修めるか。助道の法、三十七道品と六波羅蜜、戒定慧を修め、悪を断ち善を修し、煩悩を降伏し、智慧を増長する。助道の法が何故智慧を増すか。戒を守り心清浄となり、禅定が増長し、禅定中に一心に観行思惟し、現前に諸法を観察する。観行により諸法への理解を深め、見道に近づくが、未だ証の域に至らず。

例えば呼吸観察にて、未到地定の定力を得た時、観行が有効かつ明晰となり、現前に如実に呼吸を観じ、呼吸法を体得し、色身への認識を深化させる。これにより一定の智慧を得るが、未だ身見を断たず、禅定と観行の智慧を更に増進させて我見を断じ、証法して証慧を生ずる必要あり。修慧を証慧と誤解し大妄語業を造る者もいる。衆生は自らの修証を自覚せず誤解し、経験不足により如実の判断・弁別ができず、慢心と我執により大妄語は免れ難い。

聞・思・修・証の四種の智慧において、第四の証慧のみは退失せず、前三の慧は退失の可能性大なり。現世に退失の因縁あれば退失す。故に仏法は自ら証得して初めて不退となる。聞いたものは思惟・修習を経て加工されても完全に自己のものとはならず、失われ易い。智慧が退失し禅定も退すれば煩悩再び現前す。故に仏道は努力して実証することが根本である。

回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向す。世界の平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、干戈永く息み、一切の災難ことごとく消退せんことを。各国人民が団結互助し、慈心をもって相向かい、風雨順時にして国泰民安ならんことを。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、善縁を広く結び、善業を広く修め、仏を信じ学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開かんことを。仏教の永き興隆、正法の永住を祈願し、三界の火宅を極楽の蓮邦となさんことを。

回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向す。世界の平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、干戈永く息み、一切の災難ことごとく消退せんことを。各国人民が団結互助し、慈心をもって相向かい、風雨順時にして国泰民安ならんことを。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、善縁を広く結び、善業を広く修め、仏を信じ学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開かんことを。仏教の永き興隆、正法の永住を祈願し、三界の火宅を極楽の蓮邦となさんことを。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

瑜伽師地論第九巻十二因縁釈(十一)

次の記事 次の記事

瑜伽師地論 第九巻 十二因縁釈(十三)

ページのトップへ戻る