原文:复次。无知无见。无有现观。黑闇愚痴。及无明闇。如是六种无明差别。随前所说七无知事。次第应知。于后二无知事。总合为一。起此最后无明黑闇。复有差别。谓闻思修所成三慧。所治差别。如其次第。说前三种。即此所治软中上品差别。说后三种。如是所治差别故。自性差别故。建立六种差别应知。
解釈:また、無知、無正見、現前観察ができないこと、心の暗黒、愚痴、および無明の暗黒、この六種の無明の差別は、先に述べた七種の無知の事柄の次第に従って知るべきである。六種の無明と七種の無知のうち後の二種の無知、すなわち染浄愚と増上慢愚とを一つにまとめて、六種の無明の中の最後の無明の暗黒を生じさせる。さらに差別がある。すなわち、聞・思・修によって成就される三種の智慧、聞慧・思慧・修慧が、二種の無明の差別を対治するのであり、次第に従って、無明の中の前の三種、すなわち無知、無見、無有現観を了知する。この三種の智慧が対治する初・中・上品の差別は、六種の無明の中の後の三種、すなわち暗黒、愚痴、無明の暗黒である。さらに知るべきことは、三種の慧の対治の差別に基づき、およびこれらの法の自性の差別に基づいて、この六種の無明の差別が建立されたということである。
聞・思・修を行うとき、聞慧・思慧・修慧が生じる。この三種の慧には差別があり、次第に深まっていくものである。慧力が最も大きいのはもちろん修行によって得られる智慧であり、最も浅い慧は聞法によって得られる智慧である。思惟によって得られる智慧は聞慧より深く、修慧より浅い。それゆえ、この三種の慧が対治する愚痴もそれぞれ異なる。聞慧は無知を対治して知を得るが、それは単に知るだけである。思慧は無正見を対治して正見を得るが、それも単に正見を得たにすぎない。修慧は現量の観行がないことを対治して現観の智慧を得る。それによって諸法を現量で観察することができ、この智慧は最も深いものであり、心中の最も根本的な無明を破除することができる。
無明は大まかに六種の差別に分けられ、浅いものから深いものへとある。もちろん浅い無明は破除しやすく、深い無明は破除しにくい。無知という最も浅い無明は、聞法するだけで破除でき、聞法した後には知となった。無見という無明は、聞法した後、さらに思惟する必要があり、思惟を経て初めて正見が生じる。そして現前観察ができないという無明は、修習の過程で禅定と観行の智慧が生じて初めて破除できる。しかし、たとえ現前観察の智慧を得たとしても、心中にはさらに深い無明が破除されずに残っており、その後の修行の過程で諸法を実証することによって初めて次第に破除され、最後の一品の無明の暗黒が破除されたとき、すなわち成仏するのである。それゆえ、聞・思・修の後にはさらに「証」があり、実証してはじめて一切の無明を破り尽くすことができ、実証こそが仏道なのである。
修行には四つの段階があり、先の聞・思・修のほかに、最後の最も重要な一歩である「証」がある。聞・思・修をして証しなければ、根本智を得ることはできず、煩悩を断つこともできず、無明を破り尽くすこともできず、解脱を得ることもできない。聞・思・修によって得られる智慧と、法を証することによって得られる智慧とは、根本的に異なり、差は非常に大きい。もし法を証しなければ、無知・無見・無有現観という前の三種の無明を対治することはできても、暗黒・愚痴・無明の暗黒という三種の深重な無明を対治することはできない。後の三種の無明は衆生の心中に随眠しており、知り難く除き難い。実証しなければ、大乗・小乗いずれの解脱も望みはない。
聞によって得られる慧は、意識の多聞という基礎の上で、無知の問題を解決することしかできない。法を知ることはほんの最初の段階にすぎない。法を知っただけで慢を生じ、衆生を見下し始める人が少なくなく、中には聞慧を証慧とみなして、大妄語業を造作する人さえいる。思慧は、法を知るという基礎の上に、聞いた法について心思惟を起こし、さらに一歩進んだ認識を得て、智慧を生じさせるものである。しかしこれも意識の比量と非量の認識にすぎず、根本的な問題を解決するものではない。それにもかかわらず、この浅薄な思慧を証慧とみなして、大妄語を造作し、我慢を生じ、衆生を見下し、増上慢の人となってしまう者もいる。
修慧は聞慧や思慧よりはるかに進んでいる。修とは何を修めるのか。それは助道の法、三十七道品と六度を修習し、戒定慧を修習することである。修習の過程で悪を断ち善を修め、煩悩を調伏し、智慧を増長する。助道の法を修習するとなぜ智慧が増長するのか。戒を守ることで心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) となり、禅定が増長し、禅定の中で一心に観行思惟することができ、諸法を現前に観行することができるからである。観行の中で諸法に対する知解が強められ、見道に一歩あるいは数歩近づくが、まだ証の段階には達しない。
たとえば観呼吸において、禅定が比較的よく、未到地定 (anāgamya-samādhi) の定力があれば、観行が比較的よくはかどり明晰であり、呼吸を現前に如実に観ることができ、呼吸の法について一定の体得を得て、色身に対する認識が一歩進み、一定の智慧的認識を得る。以前には現前に呼吸を観ることなどできなかったのである。しかしこの段階ではまだ身見を断っておらず、引き続き禅定と観行の智慧を増進してはじめて我見 (ātma-dṛṣṭi) を断ることができ、それによって法を証し、証慧を生じさせる。また、修慧を証慧とみなして、大妄語業を造作する者もいる。衆生はこのように、自覚的あるいは無自覚に自身の修証を誤解する。経験が不足していて如実に判断し弁別する力がなく、さらに慢心と我心が働くため、大妄語は避けがたいのである。
聞・思・修・証の四種の智慧のうち、第四の証慧だけが退失することがない。前の三種の慧はいずれも退失する可能性があり、きわめて退失しやすい。後世に退失するだけでなく、現世において退失の縁に遇っても退失する。それゆえ、仏法は自分で証得してはじめて永遠に自分のものとなり、退失しないのである。聞いて得たものは、たとえ自分の思惟と修習を経て、加工を施したとしても、なお完全には自分のものではなく、自分のものでないものは失いやすい。智慧が退失した後、禅定も退失すると、煩悩が再び現れる。それゆえ、仏法を学ぶ者にとって努力して実証することこそが根本なのである。
0
+1