原文:因についての無知とは何か。謂わく、不如理なる分別を起こし、或いは無因を計り、或いは自在天、世性(プラクリティ)、士夫(プルシャ)、中間等の不平等因を計るが如き、所有の無知をいう。因についての無知の如く、因より生じたる諸行についてもまた同様である。
釈:因についての無知とは何か。五蘊よりなる世間の生起する因について、不如理なる分別を起こすこと、あるいは有情衆生が無因にして存在すると計ること、あるいは大自在天の作ったものと計ること、あるいは何らかの神霊の作ったものと計ること、あるいは神我(アートマン)の作ったものと計ること、及び種々の神明や造物主の作ったものなどと計り、これらの造物主が衆生を創造したことが衆生の不平等の起因であると計ることである。五蘊世間の生起する因についての一切の不知こそが、因についての無知である。業因についての無知と同様に、因より生じた諸行についてもまた同様の無知である。
五蘊世間の生起と由来を知らなければ、五蘊諸行の生起と由来もまた知ることができない。五蘊世間の生起は二つの角度から観察される。一つは小乗の空の角度から観察するものであり、もう一つは大乗の如来蔵・阿頼耶識・異熟識の角度から観察するものである。もちろん異熟識の角度からの観察が最も究極的な観察であり、最も真実を観察し得て、一切の生因無知と了因無知を滅し、一切の無明を滅することができる。
原文:また、彼に罪なし故に善と名づけ、罪有る故に不善と名づく。利益有る故に修習すべきと名づけ、利益無き故に修習すべからずと名づく。黒き故に罪有りと名づけ、白き故に罪無しと名づく。雑なる故に有分と名づく。六触処について如実に通達する無知とは何か。謂わく、増上慢の者、証する所の中に於いて、顛倒に思惟する所有の無知である。かくの如く略して十九種の無知と説く。
釈:諸行に罪なきものは善法であり、罪有るものは悪法である。自身にとって利益有るものは修習すべきであり、利益無きものは修習すべきではない。なす業行が染汚である故に罪有りであり、なす業行が清浄である故に罪無しである。有情の業行は染汚と清浄が交雑している故に、区別すべきである。
六触処について如実に通達する無知とは何か。得ざるに謂って得たりとし、証せざるに謂って証せりとする増上慢の人が、その修証の過程において顛倒に思惟し、六触処を如実に知ることができず、六触処の真実の理を通達できず、六触処に関する一切の無知こそが、六触処について如実に通達する無知である。以上の無知を略して説けば、総じて十九種となる。
増上慢の意味は、増上果に対して慢心を起こすことである。増上果とは一般に小乗の初果から四果までを指し、聞思修がある程度に至り、智慧が増上すれば法を証し、心は対応する果位に相応する。しかし証得していないのに、証得したと自ら認めることが、増上果に対して慢を起こすことであり、増上慢と名づける。増上慢の人は実証がないため、六触処を通達せず、六触処を如実に知らない。六触処とは眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処である。六触処には六根と六塵の触があり、その後六受が生起する。六入・触・受を通達せず、不如理に思惟観行することが無知である。
回向文:我々のネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を以て、法界の一切衆生に回向し、世界の民衆に回向し、世界の平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、干戈永く息むことを祈る。一切の災難、ことごとく消退せんことを! 各国の人民が団結し互助い、慈心をもって相い向かい、風雨時に順い、国泰く民安んぜんことを祈る! 一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺さず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ、涅槃の路を開かんことを願う! 仏教の永き興隆、正法の永き住持を祈り、三界の火宅を変じて極楽の蓮邦となさんことを!
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