原文:業に対する無知とは何か。諸々の業について、理にかなわぬ分別を起こすことを指す。すなわち作者が存在すると考える、すべての無知をいう。異熟に対する無知とは何か。異熟果に摂せられる諸行について、理にかなわぬ分別を起こすことを指す。すなわち受者があると考える、すべての無知をいう。業と異熟に対する無知とは何か。業とその果報について、理にかなわぬ分別を起こす、すべての無知をいう。
釈:業に対する無知とは、一切の業行に対し不如理な分別を生じ、業行に造作者が存在すると認識する類の無知を指す。異熟果に対する無知とは、異熟果に摂せられる諸行に対し不如理な分別を生じ、異熟果に受者があると説く類の無知を指す。業と異熟に対する無知とは、業行及びその果報に対し不如理な分別を生じる、これら全ての無知を指す。
何故一切の業行に造作者が存在すると考えることが無知か。業行は縁起の法であり、因縁の和合による仮の法であって実義を有しないからである。異熟果とは、前世の業によって感得される後世の果報を指す。果報が存在する故にその受者たる有情が存在するが、有情は縁起の体であり因縁和合の法であって実法ではない。故に異熟果に受者が存在すると考えることは無知である。同様に、業行に造作者が存在すると考えることも、異熟果に受者が存在すると考えることも、全て無知に属する。
原文:仏に対する無知とは何か。仏菩提について、あるいは思惟せず、あるいは邪に思惟し、あるいは放逸により、あるいは疑惑により、あるいは誹謗する、すべての無知をいう。法に対する無知とは何か。正法の善説性について、あるいは思惟せず、あるいは邪に思惟し、あるいは放逸により、あるいは疑惑により、あるいは誹謗する、すべての無知をいう。僧に対する無知とは何か。僧の正行について、あるいは思惟せず、あるいは邪に思惟し、あるいは放逸により、あるいは疑惑により、あるいは誹謗する、すべての無知をいう。
釈:仏に対する無知とは、成仏の菩提道を思惟せず、あるいは邪に思惟し、放逸して精進せず、疑惑の心を抱き、あるいは誹謗する、これら全ての無知を指す。法に対する無知とは、正しく真実の法を善巧に説くことについて思惟せず、あるいは邪に思惟し、放逸して精進せず、疑惑の心を抱き、あるいは誹謗する、これら全ての無知を指す。僧に対する無知とは、出家僧の正行について思惟せず、あるいは邪に思惟し、放逸して精進せず、疑惑の心を抱き、あるいは誹謗する、これら全ての無知を指す。
これは仏法僧三宝に対する無知であり、三宝の功徳を思惟せず、正しく思惟せず、あるいは疑惑を抱き、あるいは誹謗する種々の身口意の行いが無知である。三宝に対する無知の結果は生死の苦海に沈淪し、解脱を得られないことである。
原文:苦に対する無知とは何か。苦が苦性であることについて、あるいは思惟せず、あるいは邪に思惟し、あるいは放逸により、あるいは疑惑により、あるいは誹謗する、すべての無知をいう。苦についての如く、集・滅・道に対する無知もまた同様であることを知るべきである。
釈:苦に対する無知とは、苦が苦性である理について思惟せず、あるいは邪に思惟し、放逸して精進せず、疑惑の心を抱き、あるいは誹謗する、これら全ての無知を指す。苦に対する無知がこの如く、苦集・苦滅・苦滅道跡に対しても同様の無知がある。これを苦集に対する無知、苦滅に対する無知、苦滅道跡に対する無知という。
回向文:当ネットプラットフォームにおける一切の弘法と共修の功徳を以て、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向する。世界の平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、干戈永遠に止むことを。一切の災難ことごとく消退することを。各国人民が団結相助け、慈心をもって相対し、風雨時に順い、国泰民安であることを。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生を断ち、善縁を広く結び、善業を修め、仏法を信じ学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開くことを。仏教の永き興隆と正法の永住を祈念し、三界の火宅を極楽の蓮邦となすことを。
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