小乗の三十七道品が満足されなければ我見を断つことができず、禅定が不足していると眼前に観行を現じることができず、ただ推量するのみである。喜覚分・猗覚分・定覚分・捨覚分が具足せず、あるいは全く現れていないならば、我見を断つには程遠い。四正勤の悪を断ち善を修めることが未だ修まらず、悪は続き善は未だ生起せず、煩悩が軽減せず、心が変わらなければ、我見を断つことはできない。八正道が未だ完全に具足せず、身口意の行いに不正なところがあれば、やはり我見を断つことはできない。世間法に未だ貪着し、出離心が強くないならば、同様に我見を断つことはできない。心中に我相が残り、時処所々に我を主とし中心とし、人相・衆生相・寿者相があり、四相が明らかであるならば、我見を断ったことにはならない。
三十七道品を修する過程において、身心の不断の変化に伴い、種々の吉祥なる夢境は、煩悩が漸次脱落し、業障が漸次消除し、心が漸次清浄となり、身が漸次無障碍となり、禅定が漸次深まり、世俗法が漸次遠離することを示す。我見を断つ時、法眼が清浄となり、五蘊が皆空無我であることを見、定慧等持の三昧境界が現れ、身心共に清浄にして三昧の中に安住し、身心の覚受は非凡である。今の衆生の根機は比較的浅薄であり、このような三昧は非常に証得し難く、戒定慧も修満し難いため、我見を断つことは極めて困難である。現在見る所、自ら我見を断ち明心したと称する多くの人々にこれらの現象が現れていないならば、それは実証ではない。
我見を断ち明心する時は、既に胎を換え骨を抜き、鯉が竜門を跳ねたようなものである。もし粗重な煩悩が消除せず、心が清浄でなければ、骨は元のままであり、胎も変わらない。種々の見道の条件を低下させ、三十七道品や菩薩の六度が具足円満でなければ、それは竜門を這って過ぎたようなもので、本質は依然として鯉であり、竜には変わっていない。証果と明心という仏法修証の最も肝要な処において、もし粗略で厳格でなければ、臨終の際に種々の悪相が現前し、悪道は免れず、死後自らが陰森恐怖の処にあることを知って後悔しても既に遅い。
回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を以て、法界のすべての衆生に回向いたします。世界の民衆に回向いたします。世界平和を祈願し、戦争起こらず、烽火興らず、干戈永遠に止むことを。一切の災難ことごとく消退することを祈願します。各国の人民が団結相助け、慈心をもって相対し、風雨順調に国泰民安であることを祈願します。すべての衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開くことを願います。仏教が永遠に興隆し、正法が永住し、三界の火宅を変じて極楽の蓮邦となることを祈念いたします。
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