衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年12月21日    火曜日     第1開示 合計3562開示

我見を断ったかどうかの判断方法

小乗の三十七道品が満たされなければ我見を断つことができず、禅定が不足していると現前に観行することができず、推量と想像に頼るしかない。喜覚分・猗覚分・定覚分・捨覚分が具足していない、あるいは全く現れていない状態では、我見を断つには程遠い。四正勤による悪を断ち善を修めることがまだ修められておらず、悪が続き善が生起せず、煩悩が軽減されず、心が変わっていなければ、我見を断つことはできない。八正道が完全に具足しておらず、身口意の行いに不正な点が残っている場合も我見を断つことはできず、もしなお世間法に貪着し、出離心が強くなければ、同様に我見を断つことはできない。心中に我相が残り、常に处处で自我を主とし中心とし、人相・衆生相・寿者相が依然として明らかであるならば、我見は断たれていないのである。

三十七道品を修める過程において、身心が絶えず変化するにつれ、種々の吉祥なる夢境は、煩悩が次第に脱落し、業障が徐々に消除され、心がだんだん清浄になり、身が次第に障碍なくなり、禅定が深まり、世俗法が遠ざかっていることを示している。我見を断つ時には、法眼が清浄となり、五蘊が皆空で我がないことを見、定慧等持の三昧境界が現れ、身心ともに清浄で三昧の中にあり、身心の覚受は非常に際立つ。今の衆生の根基は比較的浅薄であり、このような三昧は非常に得難く、戒定慧も修めて満足させることは容易ではない。それゆえ我見を断つことは非常に困難である。現状を見ると、我見を断ち明心したと自認する多くの人々にこれらの現象が現れていないならば、それは実証ではないのである。

我見を断ち明心する時には、すでに脱胎換骨し、鯉が竜門を跳ねたようなものである。もし粗重な煩悩が消除されず、心が清浄でなければ、骨は依然として元のままであり、胎は変わらない。もし種々の見道の条件を下げ、三十七道品や菩薩の六度が具足せず円満でなければ、それは這いずって竜門を通ったようなもので、本質は依然として鯉であり、竜には変わっていない。証果と明心という仏法修証の最も肝要なところで、もし軽率で厳密さを欠けば、臨終の際に種々の悪相が現前し、悪道は避けられず、死後に自らが陰森恐怖の所にいることを発見しても、後悔しても遅いのである。

回向文:私たちのネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳をもって、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向いたします。世界平和を祈願し、戦争が起こらず、烽火が興らず、干戈が永遠に止みますように。あらゆる災難がことごとく消退しますように。各国の人民が団結して助け合い、慈心をもって相対しますように。風雨順調で五穀豊穣、国家安泰で民衆平安であることを祈願します。一切の衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ学び、善根が増長しますように。苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開きますように。仏教が永く興隆し、正法が永く住することを祈願します。三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならしめますように。

——生如法師の開示
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