八十二の観行:普段は心が空っぽで、根がなく味気なく、内側に意識が向きがちで、外への関心が薄れている。今では衆生への感覚が以前より減り、日常会話も少なくなり、法義の学習は好むものの、法義の弁証にはあまり興味が持てず、他人と議論しても途中で話す気が失せる。以前は仕事や生活で悩みがあると眠れなかったが、今は食べる時は食べ、寝る時は寝て、すぐ忘れるようになった。時に禅定に入ると思い出して妨げられるが、また忘れる。意根が動き始めると、作意が生じるのが感じられる。意根の動きが最も顕著なのは貪りや瞋恚が起こる時で、注意深く観察すべきだ。何事をするにも、意根が先に動く。
評:禅定が生じ観行が伴うと、内面に変化が現れる。禅定の有無は大きく異なり、禅定を得れば外界への執着が減り、些細な事への関心も薄れ、多くの物事に興味を失い、煩悩が軽減され執着が減れば智慧が徐々に生じる。禅定の利益は尽きることがない。禅定を修めなければ修行とは言えず、仏法を学ぶのは戯論となり実証できない。禅定があってこそ観行が可能となり、観行が細やかに行き届き、大事を捉えて小事を放ち、多くの不要な事柄を捨てられる。人も縁に随う柔軟さを増し、固執性が弱まり、瞋念が軽減され、貪欲も減退する。
禅定を修め観行を行うようになると、内面を反観できるようになり、心中の煩悩を即座に察知し、随時調伏できる。悪不善の念は次第に減り、善念と捨念が増え、四正勤が修められる。未生の善は生じ、已生の善は増長し、未生の悪は生じず、已生の悪は滅する。もし煩悩がまだ重く、善念少なく悪念多い状態なら、四正勤が修まっておらず、心性が変わっていないため、我見を断じ証果を得る望みはない。
故に初果を証するには粗重な煩悩を断じ、心性が聖人の境地に至らねばならない。もし我見を断じたとか悟りを開いたと自称しながら、煩悩が依然重く、心性に根本的変化がなく、貪瞋嫉妬に駆られ、争いを好み、身口意が清浄でない者は、自ら証果や悟りを称するも如来蔵は認めない。戒律と禅定を修めず、理にかなった観行がなく、七覚分や八正道・四正勤などを修めていない者に、大小乗いずれの見道もあり得ない。故に四正勤を含む三十七道品は実修の指標となる。
回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を、法界のすべての衆生に回向いたします。世界の民衆に回向し、世界平和と戦争の消滅を祈願します。烽火起こらず武器永遠に止み、一切の災害退散を祈ります。各国国民が団結し慈心をもって相助け、風雨順調に国泰民安であるよう。全ての衆生が因果を深く信じ慈心をもって殺生を断ち、善縁を広く結び善業を修め、仏法を信じ学び善根を増長し、苦を知り集を断ち滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の道を開くよう。仏教が永く興隆し正法が常住し、三界の火宅を極楽の蓮華郷と変じますよう。
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