如舍の観行 (vipaśyanā-caryā):普段は心が空っぽで虚ろな感じがし、根がなく、味気なく、内に向かって関心を向けることが多く、外に対する関心は少ない。今は衆生に対する感じが以前ほど多くなくなり、普段は口数が少なくなり、まだ法義を学ぶのは好きだが、法義の弁証にはあまり興味がなくなり、他人と問題を議論しても、半ばまで話してそれ以上話したくなくなる。以前は仕事や生活で煩悩に遭うと不眠になったが、今は食べるべき時に食べ、眠るべき時に眠り、忘れようと思えば忘れ、時々じょう (samādhi) に入ると思い出して少し妨げられるが、また忘れてしまう。意根が少し動くと、造作が始まったのを感じ取ることができる。意根の動きで最も明らかなのは貪瞋が起こることで、注意深く観察しなければならず、何事をするにも意根が先に動く。
評:禅定が生まれてくると、観行 (vipaśyanā-caryā) もそれに伴って進み、内面に変化が生じる。禅定があるのとないのとでは大きな違いがあり、禅定ができてからは、外への攀縁が少なくなり、些細なことへの関心も少なくなり、多くのことに興味を持たなくなり、煩悩が軽減して執着が減り、智慧が次第に生まれてくる。禅定の利益は語り尽くせない。もし禅定を修しなければ、それは修行していることにならず、仏法を学ぶことも戯論となり、実証することができない。禅定があってこそ観行 (vipaśyanā-caryā) ができ、観行 (vipaśyanā-caryā) があってこそ細やかに的確に行き届き、大事なことを捉えて小事を捨て、多くの不必要なことを捨てることができ、人も縁に随い巧みになって、頑固さが弱まり、瞋念が軽くなり、貪心が弱まる。
禅定があり観行 (vipaśyanā-caryā) を修してからは、内面に向かって反観 (pratyavekṣā) することができ、心の中の煩悩を直ちに発見でき、いつでも調伏することができ、悪不善念はますます少なくなり、善念と捨念はますます多くなり、四正勤が修まってくる。すなわち、未だ生まれざる善を生じさせ、既に生じた善を増長させ、未だ生まれざる悪を生じさせず、既に生じた悪を滅除する。もし煩悩がまだ重く、心念が善少なく悪多い人がいるならば、四正勤は修まっておらず、心性が変わっておらず、断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga) して証果する望みはない。
だから、初果の証得には粗重な煩悩を断除しなければならず、心性はすでに聖賢人の心性となっていなければならない。もし自分は断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga) したとか、自分は開悟したとか言う人がいても、その人の煩悩が依然として重く見え、心性に根本的な変化がなく、貪瞋嫉妬であちこちで争い、身口意が清浄 (viśuddha/pariśuddha) でないなら、このような人の証果や開悟は自分で思い込んでいるだけであり、如来蔵 (tathāgatagarbha) は認めない。いかなる人も、戒律と禅定を修持せず、如理の観行 (vipaśyanā-caryā) がなく、七覚分や八正道、四正勤なども修持していないならば、大小乗のいかなる見道もあり得ない。それゆえ、四正勤と三十七道品こそが実修の指標なのである。
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