衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2021年12月08日    水曜日     第2開示 合計3556開示

時間と心と不相応

時間とはどのような法でしょうか?物質に類する実有の法なのでしょうか?時間は物質である色法ではなく、心法でもなく、色に非ず心に非ず、心と相応しない行法です。時間はなぜ心と相応しないのでしょうか?心が変現した法は必ず心と相応するからです。三能変識が和合して変造した法は三能変識と相応し、生滅変異し増減し、心の赴くままに変化します。しかし時間という仮法は三能変識が変造したものではなく、心法・色法・心所法が和合して顕示する仮法です。それゆえ心の赴くままに変化することはできず、生じることも滅することもできず、延ばすことも縮めることもできず、得ることも失うこともできません。時間は物質のような実有の法ではありません。物質である色法は四大の種子から形成される実法ですが、時間はいかなる種子からも形成されておらず、物質の相対的な変化によって顕現されるものです。それゆえ実有の法ではなく仮法であり、亀の毛や兎の角のように、見えず、触れられず、掴めないのです。

時間の作用とは何でしょうか?時間には実質的な作用がなく、仮法は利用することができません。時間は仮法であって役に立たないので、互いに贈ったり奪ったりすることもできません。有人はこう言うでしょう:「あなたは私の時間を占有した、私の時間を無駄にした」と。実はそんなことは全くなく、誰も時間を占有したり無駄にしたりすることはできません。例えば、今私は食事をすべき時に、あなたがやって来て、私はあなたと話をし、あなたの用事を解決せざるを得なくなり、結局食事ができなかったとします。これに時間が関わっているでしょうか?食事であれ、会話であれ、用事の解決であれ、その中に時間という法はなく、端から端まで人・事・物の運転であり、人・事・物の三者が和合して運行しているのです。この過程の長短によって時間が顕示されるのです。

心法と色法の運行の過程がその過程の長短を顕示することを時間と呼び、物質の変化の過程の長短を時間と呼ぶのです。例えば、赤ん坊が生まれて一か月経つと「満月」と呼びますが、一か月というのは時間であり、実は赤ん坊の成長発育の過程の一つであって、時間というものはありません。赤ん坊が一年、十年、百年、一秒、一分、一時間、一日成長するのも、すべて赤ん坊の成長の過程を指しており、時間という法はなく、時間は受動的に顕示されるものです。今、時間が止まったように、動かなくなったように感じる人がいるとすれば、実は心が動かなくなったのであって、分别しなくなったのであり、時間というものはありません。時間が動くとか動かないとか言うのはすべて戯論であり、亀の毛や兎の角がどうのこうのと論じるようなもので、すべて戯論なのです。

私たちは時間を見るとき、時計を見ます。時計の上で秒針・分針・時針が組み合わさって時間を顕示します。これらの針がなければ時間はなく、これらの針があっても同様に時間はありません。時間の最も根本的なものは、空における太陽の運行の位置によって顕示されます。太陽がなければ時間はなく、太陽があっても同様に時間はありません。太陽が地平線から昇るとき、人類はこの状態を一日の朝と定義し、同時に温度が比較的低いので、朝日が昇るこの状態を朝と定義しました。太陽が頭上の空まで昇ると、人類はそれを一日の正午と定義しました。太陽が沈んで地平線の下に入った状態を、人類は一日の夜と定義しました。このように太陽が一周運行することを、人類は一日の時間と定義したのです。さらに太陽の運行周期の数を統計して、それぞれ十日、半月、一か月から十二か月、一年、二年などと定義しました。すべての長短の時間は物質である色法に依拠して初めて顕示されるものであって、時間と呼ばれる真実の法など存在しないのです。

もし誰かが私に用事を頼んできて、私が「時間がない」と言うなら、実際には誰も時間を所有しているわけではなく、ただ各自にそれぞれやるべきことがあって、他のことをする余裕がないだけで、仮に「時間がない」と名付けるだけです。何事をするにも、心法と色法に関わりますが、心法は識の種子から形成される生滅変異する法であり、これも実有ではなく、時間よりいくらか真実であるとはいえ実在しません。物質である色法はすべて四大の種子から形成される法であり、同様に実有ではなく、ただ時間よりいくらか真実なだけです。心法も色法も虚妄の法であり、両者が和合して顕示する時間は、なおさら虚妄の法なのです。

もし誰かが自分の寿命が長くなることを望むなら、それは時間を引き延ばしたのではなく、自分の色身五陰の運行の流れを長くしたのであり、寿命の短い人は時間を縮めたのではなく、五陰の身の運行の流れが短いのであって、時間という相も法もありません。時間割を作るのが好きな人がいますが、実はそれは時間割ではなく、時間上の計画ではなく、人・事・物を処理する流程表であり、人・事・物の安排の流れなのです。生命の中に時間の相がなくなったとき、心はどれほどの束縛から解脱できるでしょうか?以前は時間という観念のために、自分にどれほどの拘束を課し、どれほどの執着を増やしてきたでしょうか?

例えば一つの夢を見るとします。大きな夢、長い夢で、夢の中で一生を生き、幾劫もの時間を生き、酸いも甘いも、悲歓離合、転転流離を経験したとします。目覚めたとき、それがただ一つの夢に過ぎなかったと気づき、何事も起きておらず、誰も現れておらず、何も得ることも失うこともなく、自分は無事であったと分かります。夢の中には人・事・物もなく、時間もなく、すべてが虚幻であり、目覚めた瞬間に夢から解脱するのです。同じように、一切の衆生は生死の大夢の中で流離し、困苦に堪えません。この生死の大夢は夜見る夢と同じであって、真実の人・事・物は何もなく、時間も空間もなく、何もなく、すべて虚幻です。目覚めたとき、自分が無得無失で、掛礙なく、何事もなかったと気づき、そのとき大解脱して、究竟に成仏するのです。生死の大夢から目覚めたとき、衆生の成仏はただ刹那の間のことであり、三大阿僧祇劫という時間のスパンなどないことが分かるのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

無上妙法は唯だ意会す可く、言伝す可からず

次へ 次へ

四正勤は実修の一つの硬指標

ページトップへ戻る