衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年12月08日    水曜日     第1開示 合計3555開示

無上の妙法は言伝えず心に会す

意会とは意根による実証であり、言伝とは意識と言語を用いた解説である。無上の妙法とは最高最妙の如来蔵法であり、これは各人が自ら実証・体得すべきものであり、他人が言葉で導き啓発しても自らの実証に代わることはできない。実証には数多くの因縁条件が必要であり、戒・定・慧と福徳の両方が具わらねばならず、かつ深い疑念が生起し、念々茲(ここ)に参究する功夫が意根に至って初めて如来蔵妙法を実証できる。言伝はまず意識心に落ちるのみで、意根への功夫が足りなければ意根を触発できず、故に言伝は意根の思量や参究に代われず、結局は自証を成し得ない。

禅定と参究の功夫が深まらぬ時は、専心して功夫に励み、他人の見解を聞かず、仏経や他人の理論知識を参考にすべきでない。これらは自証実証を妨げるからである。修行というものは全て己自身の事柄であり、食事は誰が食べればその者が満腹する如く、仏法は誰が参究すればその者が自証するものであり、参究せず実証しなければ、聞いた法は盗み取ったに等しく己のものとはならぬ。三昧の境地は自ら発起するほかなく、智慧は自心より生じる。三蔵十二部を学ぶことは、永遠に自ら悟るに及ばない。修行者は大丈夫の如く、勇猛に行持し、自ら実践し、一切の便宜主義を断じ切るべきである。

無上妙法が言伝できないもう一つの意味は、如来蔵という微妙甚深の法は言語で表現できず、如何に説こうとも語られたものはそれ(如来蔵)そのものではなく、無説無示であり、指し示されたものも全てそれではない。如何なる状況でも、それ(如来蔵)は自ら現れず姿を見せず語らず作為せず、低調で無我であり、また調(整えられた様)もない。このような法にどう対処すべきか?ただ実証・体得・自悟によってのみその真の姿を見ることができ、聞いたり見たりしたものは全てそれではない。誰も法を伝えることはできず、それならば尚更他人の指示を聞く必要があろうか?

回向文:我々ネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を以て、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向し、世界平和を祈念いたします。戦争起こらず、烽火(のろし)興らず、干戈永久に止むことを。一切の災難、ことごとく消退せんことを。各国の人民が団結し互助い、慈心をもって相い向かうことを祈念します。風雨順調で国泰民安ならんことを。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、広く善縁を結び善業を修め、仏を信じ仏を学び善根を増長し、苦を知り集を断ち滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開くことを願います。仏教が永く興隆し正法が永く住することを祈念します。三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを。

——生如法師の開示
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継続不断の観行は意根の修業である

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時間と心の不相应

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