衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年12月05日    日曜日     第1開示 合計3554開示

相続不断の観行 (vipaśyanā-caryā) は意根の功夫

白雪香の白骨観の経験共有:四念処の観身不浄の法義を学び始めたばかりの頃、私は法医解剖の動画や、チベットの鳥葬の画像などを購入して、参照資料としました。夜、静かにこれらの動画や画像を見ているとき、意根は意識の眼見に伴って、肉体は私ではないという念いを生じさせることができました。当時の本来の目的は観身不浄を修することでしたが、後にしばしば思惟して導き出した結論は、肉身は我に非ず、我ならず、幻の我、仮の我であり、糸操り人形だということでした。眠るたびに身体は我ではないと思惟し、目覚めたときに肉身は我ではないと思惟しました。 

こうしてほぼ二年が過ぎたある日、昼寝から目覚めたとき(まだ目を開けていなかった)、突然、足の裏の肉が砂のように流れ去っていくのが見え、膝のあたりまでの肉がすべて流れ去ってしまいました。夢を見ているのだと思い、目を開けると、自分が目覚めていて夢を見ていないことに気づき、そこで再び目を閉じると、今度は身体の肉が引き続き砂のように流れ落ちていくのが見え、最後に頭蓋骨全体が残って見えました。しかし骨は黒くて、白ではありませんでした。私は少し分析してみて、黒い骨が見えたのは、おそらく情の関(父母や子供、親類など)を越えられていないためだろうと思い、そこで私は情の関というところで破惑の思惟を多く行いました(最近少しわかるようになってきました)。先日、みんなと一緒に四念住を共修し、片足跏趺で座禅を組んだところ、座って間もなく、腿の骨のあたりの肉が裂けていくのが見えました。それから全身の肉が少しずつ落ちていくのが見え、鮮紅の細い筋がまだ幾筋かかかっていて、落ち尽くしてはいませんでした。 

評:白雪香の観行 (vipaśyanā-caryā) の功夫は連続不断の域に達しています。法義が意根のところに落ちてこそ、功夫は連続不断になりえます。昼間に観行でき、夜に観行でき、寝る前に観行でき、目覚めた後にも観行でき、眠っているときにも観行でき、夢があろうとなかろうと観行できるのです。夢のないときは意根が単独で観行し、夢のあるときは意根が意識を督促して思惟観行させます。意識の功夫は断続的であって、連続不断にはなりえません。意根の観行の功夫が連続不断であるため、時間が長くなるにつれて色身に対する認知が変わり、ひとたび変われば、色身の肉体は我に非ずと覚悟し、肉は骨から落ちて、骨肉分離するのです。これは初步的な三昧 (samādhi) の境界であり、最終的に断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga) を断じる三昧の境界からはまだ一段の距離があります。見道の因縁条件をさらに円満させてさえいけば、見道はすぐ近くに来ます。

これは白骨観の観行の実例であり、皆さんに修行の手本として示し、観行する一人ひとりを激励するものです。努力して精進し絶えず観行を続けてさえいけば、功夫は絶えず増進し、必ず断我見を断じます。仏は私を欺きません。あとは個人のあらゆる面での因縁条件次第であり、主には発心と福德にあります。大菩提心を発し、苦からの出離の心を持ち、福德と戒定慧を勤めて修すれば、観行の功夫は日々向上し、最終的には成果が現れることでしょう。

——生如法師の開示
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