今朝、座って呼吸を観じた。気道は通暢し、胸・腹・肩・背は温かく快適であった。数回の呼吸を経て、熱流が脳部に流れ込み、今日は脳部・顔面などに明らかな詰まりの現象がなく、呼吸の圧力も大きくなかった。意念で全身の気脈の変化と覚受を感知し、その後、注意力を眼前に集中させた。
たまに法義について少し考えたりしていたが、ふと、師父が一昨日開示されたことを思い出した。すなわち、専心して呼吸を感知すること、意識による推理や誘導をせず、現量で呼吸の運行および生滅を観察すること、と。そこで眼前で専心して呼吸を観察した。長く経たないうちに、ある吸気の過程で、突然「バタッ」という音がして、右目と右耳根が相通じたのを感じ、続いて脳とも相通じた。右脳の部分がいくらか空明になったのを感じた。さらにしばらく呼吸を観じ続けると、左目と左耳も相通じ、脳全体が空明となり、眼前は清澄となり、耳の外の音に対する鋭敏さは低下した。専注力がさらに一段と高まったのを明らかに感じられたが、すべての注意力が頭部にあったため、身体の他の部位の受覚は感じられなかった。頭部はその後の呼吸の中でいくらか変化があったが、うまく描写できない。こうして坐禅が終わるまでずっと続いた。
評:坐禅の過程で、眼根と耳根、そして大脳がみな相通じたのを感じた。これは禅定によって四大が変化し、微細になったためであり、勝義根 (indriya) の中で各根がいくらか通融したのである。将来、禅定がさらに深まり、五根がみな通じた後には、その機能・作用は互いに代替できるようになる。特に意根は五根の一部あるいは全部の機能を代替することができ、六根が互通すれば、六塵は一根によって了別することができる。眼根は色を見ることができるだけでなく、耳根の声を聞く機能、鼻根の香りを嗅ぐ機能、舌根の味を嘗める機能、さらに身根の触れを覚する機能をも具える。同理、他の諸根もまた同様であり、こうして六根の神通妙用が現前してくるのである。衆生はもともと誰もが神通妙用を具え得るのであるが、心に阻碍があるため、五陰 (pañca-skandha) の身は六根に分かれ、各根がそれぞれ一部の機能を管轄するので、その機能・作用は阻碍を受け、用いてもそれほど妙ではなくなるのである。本来に還って復元しようとするなら、心量を開き、各根の機能を貫通させねばならず、そうすれば妙用が現れるであろう。
大脳が通徹したのを感じたのは、心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) した後、心念が集中し、気脈が前の任脈から後ろの督脈へ運行し、督脈の末端である大脳の部位に到達して現れた反応である。気脈は後脳の勝義根 (indriya) の部位から頭頂に達し、さらに下って顔面全体に至り、印堂の穴という任脈と督脈が接するところに至って、一つの小周天がほぼ運行し終えたのである。注意力が集中しているため、定力が増強され、心念の意念作用も強くなり、身体は意念に伴って変化する。これは三能変識の機能・作用であり、意根の能変 (parināma) 作用が明らかで、やや主動性のある能変作用を呈している。もし意根の意念作用が非常に大きければ、何を想えば何に変わり、何を望めば何が来て、心中に想うことはすべて思いのままに実現する。ある時期に至れば、石を指して金とすることさえ可能であり、一定の境界を変化させることも可能である。
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