因果には空でもあり空でないという二面性があり、それはどの視点から見るかによる。空でないという意味は、世俗諦の観点から見ると、因があれば必ず果があり、因果はすべて世俗の相であるということである。例えば、善業が因であり、この因があれば必ず善果がある。悪業も同様で、悪業が因であり、この因があれば必ず悪果がある。不善不悪の業が因であり、この世俗法相の因があれば、必ず世俗法相の不善不悪の果がある。因があれば必ず果があり、世俗法相が歴然として存在する。これが因果が空でないという意味である。
一方、勝義諦の諸法実相と諸法空相という観点から見ると、善悪の業因も不善不悪の業因も、すべて如来蔵が顕現したものであり、生滅変異するもので、その本質は空である。善悪の果報も不善不悪の果報も、すべて如来蔵が顕現したものであり、生滅変異するもので、その本質もまた空である。もし業因が空でなければ、永遠に業因が存在することになり、衆生はいつ解脱できるだろうか。もし業果が空でなければ、衆生は永遠に業果報を受けることになり、果報はいつ終わるだろうか。衆生はいつ解脱し成仏できるだろうか。生滅変異するものは空であり、生滅せず変異しないものは空でない。世俗法相はすべて生滅変異するものであるから、すべて空である。
もし生滅せず変異しないものが空でないとするなら、それが因果が空でない原因である。この生滅せず変異しない法こそが、本心如来蔵である。如来蔵以外に、もし生滅せず変異しない法があるならば、その法が何であれ、それは空ではない。しかし、如来蔵以外に、実際に生滅せず変異しない法を見出すことはできない。見出せるものはすべて、如来蔵本体に関連する如来蔵の体性である。生滅せず変異しない如来蔵は、世俗諦の因を現起させ、世俗諦の果も現起させることができる。如来蔵が空でなければ、因果は必ず存在する。したがって、如来蔵こそが因果の因である。如来蔵が空でなければ因果も空でなく、如来蔵が空であれば因果もまた空である。
甚深なる唯識の観点から見ると、世俗諦の因は、如来蔵の七大種子が顕現したものであり、その本質は依然として如来蔵の属性である。世俗諦の果も同様に、如来蔵の七大種子が顕現したものであり、その本質は依然として如来蔵の属性である。したがって、世俗諦の全体は如来蔵の属性であり、如来蔵に帰属する。世俗諦の上には、如来蔵の姿を見出すべきである。
回向文:私たちのネットワークプラットフォームにおけるすべての弘法と共修の功徳をもって、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界の平和を祈願し、戦争が起こらず、烽火(ほうか)が上がらず、干戈が永遠に止むことを。あらゆる災害がことごとく消退することを。各国の人民が団結し助け合い、慈しみの心をもって相対することを祈願します。風雨順調で五穀豊穣、国家安泰で民衆平安であることを。すべての衆生が因果を深く信じ、慈しみの心をもって殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ学び、善根が増長することを願います。苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開くことを。仏教が永遠に興隆し、正法が永住することをお祈りします。三界の火宅を変じて極楽浄土とならしめんことを!
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