衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
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日常法話

2021年11月20日    土曜日     第2開示 合計3543開示

意根は現識の意味である

意根の現識とは現量識の意味であり、現量の見法、現量の識別法の意味、あるいは現量の呈現法の意味である。ある者は意根の現識を、意根が鏡が像を映すような機能を持つと理解し、鏡のように法像を顕現する機能作用があるとするが、これは甚だしい誤解である。鏡と像の関係は生む者と生まれる者の関係であり、能生なるものは必ず不生不滅の法でなければならないが、生まれるものは生滅変異するものである。ところが意根はまさに生滅変異するものであり、生まれる法である。したがって意根は鏡のように衆像を顕現するのではなく、まさに如来蔵が鏡のように衆像を顕現しており、意根もまた衆像の一つなのである。

なぜ意根が現量識なのか。意根の見法は現前存在する法を見るからであり、如実の法を見るからである。比量や非量の見法の機能は持たない。如来蔵が法を幻化する第一刹那に意根は見ることができる。これは帯質境であり、本質境に近く、比較的真実で信頼できる。意根が帯質境を見た後、さらに詳細に了別しようとする場合に初めて法を六識に渡して見せるのである。すると六識が見るのは比較的真実な帯質境ではなく、すでに変異した法であり、その顕現した法は本質境や真実境からさらに隔たり、意根の見る法よりもさらに虚妄である。ましてや意識の見法には比量や非量もあり、その顕現する法の信頼性はさらに低い。

現識の内実に照らせば、如来蔵の見法はさらに現量の見であり、意根の見るものよりも一層真実で信頼できる。如来蔵は何らかの法を見るにせよ、すべて自らが現前に出生し執持する法であり、法と少しの隔たりもない。何を生じれば何を見、何を執持すれば何を見る。生じなければ見ず、執持しなければ見ない。まして比量や非量の見法が起こることは全くない。如来蔵にとっては、過去の法もなく未来の法もなく、すべてが当下一念の法である。たとえ無量劫以前の法であっても当下一念の法である。しかし六識にとってはもはや当下一念の法ではない。実のところ六識は当下一念の法を見ることはできず、何を見るにせよすでに変異した法であり、すべて過去の法なのである。

回向文:私たちのネットワークプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳をもって、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界平和を祈願し、戦争が起こらず、烽火が興らず、干戈が永遠に止み、一切の災難が尽く消退することを!各国の人民が団結し互助し、慈心をもって相い向かい合うことを祈願します。風雨順調で国泰民安であることを!一切の衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ仏を学び善根が増長し、苦を知り集を断ち滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開くことを!仏教が永く興隆し、正法が永く住することを祈願します。三界の火宅を極楽の蓮華の世界に変えますように!

——生如法師の開示
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