衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年10月26日    火曜日     第1 回の開示 合計3530回の開示

禅定における意根の思量を如何に働かせるか

禅定において意識の思惟を用いず、意根の思量を用いるこの修行は非常に深遠であり、一般の人々には容易に達成できません。深い禅定の基盤と一定の観行の修練が必要です。禅定と観行がある程度まで進むと、意識の思惟から意根の思量へと転換できるようになります。意識の思惟は比較的表面に浮かびやすいため、普通の人でも観察可能です。例えば今この瞬間の心にどのような念があるか内省すれば、自分が何を考え、思索し、企図しているかが分かります。これらの念は通常表面に浮かび、全て意識の思惟によるものです。 

同時に、背後には意根の支持と主導作用がありますが、定力と智慧が不足していると観察しにくく、自心の真の思いを見極められません。心を極めて微細な状態に修めると、意識が思惟する際に背後で主導的な力を発揮している存在に気付きます。その力と思考の流れこそが意根のものです。意識の背後にある意根の力を発見し、意根を捉えられるようになったら、徐々に意識の思惟作用を薄れさせ、一定の段階に至ったら意識の念を捨て去ります。捨て去った後も心に念を保ち、意根の思考活動を維持し、完全に無念無想にならないようにします。これは容易なことではありません。 

禅定においては、心の奥底にある力を発見するよう努めなければなりません。それは実際に念を持ち、思考活動を有し、思索可能なもので、まさに意根の思量活動です。発見した後はその思量活動を保持し、消滅させないよう努め、意識が思惟する法義を意根に委ね、継続的に独りで思量させます。これはより深い参究の状態に属し、参禅とはまさにこのような修行です。五蘊無我を思量するのもこのような工夫を用います。こうして意根の思量を活性化させ、この思考様式、このような修行を意根の思量と呼びます。 

これを達成するには深遠な禅定が不可欠です。優れた禅定の修行により、粗い妄念を捨て去り、やがては微細な妄念も捨て去ります。妄念とは他の重要でない法についての思惟、つまり雑念や多念を指し、正念にとっては全て妨げとなるため除去します。残るのは意識が思惟すべき法のみとし、その後意識の思惟も除去し、意根にその法を思量させます。意識と意根が思考の役割を交替するのです。この時、意識は依然として存在し、軽微な了別作用を担いますが、深い思惟や分析、推論は行わず、意根に深く思量させます。言語・文字・音声を伴わないこの思量作用は、禅定と智慧が不足していると観察しにくいものです。 

意根のこの思量機能は心の奥底の考えとも呼ばれます。人の心の考えは二種類に分かれます。一つは表面に浮かぶ浅層の意識の考え、もう一つは深層に潜む心の底の意根の考えで、真の自己の考えを表します。例えば人に何かをしようと口では言いながら、実際にはその考えがなく、口先だけの言葉でごまかし、心には別の声と考えがある場合です。その考えは秘匿され、人に知られたくないため、意識の言語で隠蔽したり、注意を逸らしたりします。絶えず自らの意根の内面を内省し、意根の心を捉え、元来意識が執着し思索していた法を意根に転嫁させます。こうして意根に法を常時執着させれば、意根の思量性が顕現します。意根が受け入れれば薫染は成功し、受け入れなければ成功しません。修行が十分に至って初めて成功するのです。 

日常生活において、我々は皆意根とその思量作用を用いていますが、観察できず、区別もつかず、総括もできないため、意識の思惟か意根の思量か判別できません。禅定の修行と観行の智慧を増すことで、これらの問題を理解できるようになります。禅定が深まれば心が微細になり、意識と意根の違いを発見し、心の内側の声と表面の声を区別できるようになります。これにより意根の思量状態を明らかにし、意根の思量性を捉え、徐々に運用できるようになります。

この境地に達するには禅定の修行を強化し、智慧の弁別力を高め、煩悩を調伏し、妄念を減らし、心を仏法に縁らせ世俗法に攀縁させないことが必要です。禅定が深まるほど心は集中し、妄念は減少し、遂には妄念を捨てたい時に捨てられるようになります。心が微細になり智慧が深まると、意根の機能作用が良く発揮されます。色身が調伏され、定慧等持に達すると、直接意根の思量で問題を解決できるようになります。ある法に対する疑情が強い時、直接その法を心中に懸け、初めは意識で懸け、次に意識の作用を軽減・希薄化し、意根にその法を懸けさせます。この時、より深い禅定に入り、意根に深く法を思量させます。意根が集中して思量すればするほど禅定は深まり、禅定が深まれば意根の思量もより深く緻密になり、遂には問題を明らかにできます。同時に三昧の境地に入り、法喜に満たされ、身心が軽安となり、禅悦が現れます。三昧とは定慧等持の境地であり、この境地が現れると一日中精神状態が非常に良く、身心共に軽安となります。

——生如法師の開示
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