衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年10月14日    木曜日     第1開示 合計3524開示

仏説優婆塞五戒相経(大妄語戒について)

原文:仏は諸比丘に告げられた。私は様々な方法で虚言を呵責し、虚言を吐かない者を称賛する。たとえ戯れであっても虚言を吐くべきではない。ましてや故意に虚言を吐くことなど論外である。ここで戒を犯すとは、もし優婆塞が知りもせず証得もしていないのに、人を超えた聖者の法について、自分は阿羅漢であると宣言したり、阿羅漢に向かう者であると言ったりするならば、それは悔い返すべからざる罪を犯すことになる。あるいは自分は阿那含である、斯陀含である、須陀洹である、あるいは須陀洹に向かう者であると言ったり、初禅を得た、第二禅、第三禅、第四禅を得たと言ったり、慈悲喜捨の四無量心を得たと言ったり、無色界の空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、非想非非想処定を得たと言ったり、不浄観を得た、阿那般那念(数息観)を修めたと言ったり、諸天が私のもとに来た、諸龍・夜叉・薜荔鬼(餓鬼)・毘舎闍・鳩槃荼・羅刹が私のもとに来て、彼らが私に問い私は答え、私が彼らに問い彼らが答えたと言うなど、いずれも悔い返すべからざる罪を犯すのである。 

釈:仏は諸比丘たちに仰せられた:私は様々な方法で虚言を吐く者を呵責し、虚言を吐かない者を称賛する。修行者は戯れでさえ虚言を吐くべきではなく、ましてや故意に虚言を吐くなど、なおさら犯してはならない。もし実際に虚言戒を犯す者がいるならば、五戒を受けた優婆塞(優婆夷)が凡夫を超える聖人の法を全く知らず証得もしていないのに、人に向かって「私は阿羅漢である」「私は阿羅漢に向かう者である」「私は阿那含である」「私は斯陀含である」「私は須陀洹である」「私は須陀洹に向かう者である」「私は初禅を証得した」「私は二禅を証得した」「私は三禅を証得した」「私は四禅を証得した」「私は慈悲喜捨の四無量心を得た」と宣言した場合;

「私は無色界の空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定を証得した」「私は不浄観を得た」「私は阿那般那念(数息観)を修めた」「諸天人が私のもとに来た」「諸龍・夜叉・乾闥婆・毘舎闍・鳩槃荼・羅刹が私のもとに来て、私と対話し、彼らが問い私が答え、私が問い彼らが答えた」などと言うならば、このような主張は虚言戒を犯したことになり、犯した後はもはや悔い改めることができず、たとえ悔い改めても虚言の罪業は消えず、依然として罪があり、命終われば三悪道に堕ちて虚言の報いを受けるのである。 

以上が仏陀による虚言戒についての開示であり、主に大妄語(重大な虚言)を対象とし、非常に重大な事柄についての不実の嘘を指す。小さな虚言はここでは述べられていない。重大な事柄、特に出世間法の実証については、決して虚言や嘘をついて人を騙してはならず、聖賢を装うこの罪業は非常に大きい。国王を装えば斬首の刑に処され、一族も連座するのに、ましてやはるかに世間の凡夫の国王を超える聖賢人を装う罪はさらに大きく、悔い返すことができず、必ず悪道に堕ちる。したがって、すべての人は重大な出世間法については細心の注意を払い、慎重に言葉を選ばねばならない。100%の確信がなく、確たる証拠がない限り、自分が何らかの出世間法を得たなどと安易に公言してはならない。また、いかなる人物が証明したかに関わらず、もし事実でなければ必ず深刻な悪報を受ける。すべての仏法を学ぶ者には慎重に慎重を期し、大妄語の罪を犯さぬよう願う。一度人身を失えば、再び巡り会うことは難しい。

なぜ多くの人々が、自分が何々の法を得た、何々の果を得たと外に向かって宣言したがるのか? 衆生はどのような心理なのだろうか? 深く究めれば、結局のところ自分が優秀で優越していることを証明したい、他の人々を超えていることを示したい、私が他の人々より勝っている、他の人々は皆私に及ばないと思わせたいという欲求、あるいは他人の尊崇・敬仰・钦佩を得たい、他の人々に私に臣従してほしい、頭角を現したいなど、これらによって自惚れ・自己愛・慢心を満たそうとするのである。これはすべて心の中に「我」と「人」が存在し、我相が具足し、人相が具足していることに基づいており、我見を断じておらず、何らかの法を得ているわけではない。したがって依然として我見が具足した凡夫なのである。聖人の法を得ようとする者は、必ず自らの心の内を深く究明し、心の中に潜む「我」を掘り起こし、破壊し消滅させなければならない。その「我」が再び現れて自らを惑わし乱し、煩悩・惑業・苦を増やすことを許してはならない。

——生如法師の開示
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