衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年10月11日    月曜日     第2 回の開示 合計3522回の開示

捨受とは何か――白雪香の観行による悟り

捨てる、捨て去った、不要となった、あるいは無くなった。受とは、受想行識の受、感受作用、情緒的な感覚作用を指す。捨受とは、感情が比較的鈍い、あるいは情緒を伴わない状態をいう。 例を挙げれば、食物に対して「おいしい」「まずい」という分別がない。ほとんどの場合、食べられるか食べられないかだけがある。 また例えば、親子兄弟との別離や再会にあたって心に変化が生じない。喜びや興奮、あるいは落胆といった感情を抱かない。さらに例えば、世間の冷暖に接しても、罵られても怒らない、あるいは怒りを仮装する、あるいは一時的に怒る。他人に褒められても得意げになるような感情を持たない。他人の非難や誤解に対しても、軽蔑もせず、我慢もせず、無関心でもない。あたかも虚空を斬る刀の如く、あるいはスポンジに打ち込む拳の如く、他人が如何にしようと何の反応も示さない。

捨受の本質は無我にある。我が捨て、我が受ける。我が無ければ自然と捨てることも受けることもない。捨受の主体が消滅したからである。

評:修行とはこのように実践すべきもので、終日理論を弄ぶことではない。実際の心の働きが理論と全く相反するようではならない。無心の境地に至れば、戒めの有無を論ずる必要はなく、戒めは余分なものとなる。無心の時こそ徳行が最高に達し、無欲の時こそ徳行が最高に達する。徳行が高まって初めて聖人君子となり得る。品行の低い聖人君子は存在しない。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

分段生死はいかにして断除されるか

次の記事 次の記事

煩悩を断ぜずして菩提を証することは仏説にあらず

ページのトップへ戻る