衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年09月10日    金曜日     第1 回の開示 合計3502回の開示

教師の日に教育を語る

無明は世の隅々に、あらゆる面に浸透し、世俗のすべての法の中に染み渡っている。当然ながら教育業界にも浸透しており、無明のない教育は仏陀の教育であり、無明が極めて少ない教育は菩薩の教育、その次が辟支仏や阿羅漢の教育である。凡夫の教育は当然無明に満ちており、ただ世間法を成就させるための教育であって、世間法がすべて幻化と虚妄であり、空であることを知らない。だから世間の教育はすべて世間に法があることを指し示し、少しも空に触れることはあり得ない。世間において知識豊富な博士や博士后が解脱しやすいのか、それとも文字も読めない善根深き人が解脱しやすいのか。歴史は既に答えを出している。教育は無数の人々を社会生活に適応させるが、適応すればするほど空になりにくく、解脱しにくくなる。解脱した人々の心は社会と相容れず、表面上は適当に取り繕わざるを得ない。歴史上のすべての祖師大徳は、ほとんどが長年をかけて世間の文化を学ぶことはなく、大多数は早くに出家して道を修め、すぐに出家できない者も身は在家ながら心は道にあり、縁が熟せば出家して道を修めたのである。

仏教がインドで興ったのはなぜか。当時のインドでは人々がこぞって解脱を求め、出家して道を修める外道が非常に多かったが、法を得られず暫時解脱できなかった。仏陀は衆生の解脱の因縁が熟したのを見て、八相成道し西インドに来て仏種を残したのである。この時代、仏法を学ぶ者は多く、仏法が広く普及し、仏を信じ学ぶことが盛んになり、学識豊かな人々が次第に増えているのに、なぜ仏陀は教化に来られないのか。今は真に解脱を求め、心を空にしようとする者がほとんどおらず、すべて有に執着する者ばかりで、器量が良さそうに見えても本質的にはそうではないからである。

仏法が氾濫すればするほど邪法が乗じて入り込み、衆生は正邪を分けられず、邪を正とする者は少なくない。仏法が繁栄する背景には衰退があり、繁栄すればするほど基盤が浅くなり、栄養が表面に流れ根はますます枯れていく。細い流れが長く続いてこそ絶え間なく湧き出る。仏教も同様に、ゆっくりと着実に発展してこそ永続し、衆生は真の利益を受け、仏教に流入する者は真の人才となり、縁の深き者となり、善根が熟した者となり、仏教の棟梁となるのである。魚目混珠の状態で、大多数は魚に過ぎないのに、自らを龍と思い込んで得意になるのは大きな誤解である。明らかに鯉が竜門を跳ねるべきところが、ただ泳ぎ通しただけで、依然として魚の身のままで、龍の影すら見られないのである。

——生如法師の開示
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