無明は世の隅々に、あらゆる面に浸透し、世俗の一切の法の中に染み渡っています。もちろん教育界にも浸透しており、無明のない教育は仏陀の教育であり、無明が極めて少ない教育は菩薩の教育、その次が辟支仏や阿羅漢の教育です。凡夫の教育は当然無明に満ちており、ただ世間法を成就するための教育であり、世間法がすべて幻化であり虚妄であり、空であることを知らないため、世間の教育はすべて世間に法があることを指し示し、少しも空に触れることはできません。世の中で学識豊かな博士やポスドクが解脱しやすいのか、それとも一字も読めないが善根が厚い人が解脱しやすいのか?歴史はすでに答えを出しています。教育は無数の人々を社会生活に適応させますが、適応すればするほど空になりにくく、解脱しにくくなります。解脱した人々の心は社会と相容れず、表面上はやむを得ず体裁を取り繕っているに過ぎません。歴史上のすべての祖師大徳は、ほとんどが長年をかけて世俗の文化を学ぶことはなく、大多数は早くに出家して修道しました。すぐに出家できなくても、身は在家にあっても心は道にあり、機縁が熟せばやはり出家して修道したのです。
仏教がインドに起源を持つのはなぜでしょうか?当時のインドでは誰もが解脱を望み、出家して修道する外道が非常に多く、法を得られなかったため、一時的に解脱できなかったからです。お釈迦様は衆生の解脱の因縁が熟したのを見て、初めて八相成道し、西インドに来て仏種を残されたのです。そしてこの時代、仏教を学ぶ者がこれほど多く、仏法が広く普及し、仏を信じ学ぶことが盛んになり、学識豊かな人が次第に増えていますが、なぜ仏陀は教化に来られないのでしょうか?今は真に解脱を願い、心の空を真に願う者がほとんどおらず、すべてが有に執着する者ばかりで、根機は良さそうに見えても、実質的にはそうではないからです。
仏法が氾濫すればするほど、邪法は付け入る隙を得て、衆生は正邪を区別できず、邪を正とする者は少なくありません。仏法の繁栄の裏には凋落があり、繁栄すればするほど基盤は浅くなり、栄養がすべて表面に流れてしまい、根はますます枯れていきます。細い流れが長く続いてこそ、絶え間なく流れ続けるのです。仏教も同様に、ゆっくりと着実に発展してこそ永続し、衆生は真の利益を得、仏教に流入する者こそが真の人才であり、縁の深い者であり、善根が熟した者であり、仏教の棟梁となるのです。魚竜混じる中、大多数はあの魚に過ぎないのに、得意げに自分を竜だと思い込み、誤解は甚だしい。明らかに鯉が竜門を跳ねるべきところが、結果として泳いで通り過ぎただけで、依然として魚の身のままで、竜の影すら微塵もありません。
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