衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年09月10日    金曜日     第2開示 合計3503開示

五蘊の身のメカニズム解明

 一組の双頭の結合体双生児の姉妹がおり、身体の大部分が共有され、心臓より上の部分はそれぞれ独立しており、それぞれが片腕と片足を持ち、中焦と下焦の一部が共有され、身体全体の2分の1から3分の2の部分がそれぞれ独立している。姉妹の脊椎は骨盤部分で融合しており、神経系の一部を共有し、一組の生殖器官を共用している。二人は一緒に自転車に乗ったり、ボール遊びをしたり、泳いだり、車を運転したりできる。

 二人は一緒に母胎に入り住胎し、母胎内で二人の如来蔵が業種に基づいて共同で身体の共有部分とそれぞれ異なる部分を変造する。もちろん彼女たちには共通の業種があり、かつて共通の業行を造作し、前世の関係が非常に密接で、多くのものを共有していたため、今世では一つの身体を共有し、緊密に協力し合って生活を共にしなければならず、もし協力しなければ二人とも生存できない。これが業障であり、非常に不自由で独立できない業障である。だから人々の間の関係は適度な距離を保つべきで、あまり親密になりすぎず、来世はどうこうすると誓うのも避けるべきである。未来世で本当にそうなった場合、それは必ずしも楽しいことではなく、非常に苦しいことさえあり得る。

 二人の如来蔵は同じ業種に基づき、四大種子を出力して共通の四大となり、和合して作用し身体の共通部分を造り出す。一方、それぞれ独立した部分は、それぞれの如来蔵が単独で四大種子を出力して変造する。色身が少しずつ完成すると、二つの如来蔵がそれぞれ意識を生じ、二つの覚知が生まれ、胎満すると共に出生し、結合体双生児の姉妹となる。幸い二人は同性であり、もし異性であれば一緒に生活するのは非常に気まずいことだろう。

 二人の手と足は共同で協調する必要があり、食事、着替え、歩行などの五陰活動は二人が共同で協力し調和を保たなければならない。頭脳の思考はそれぞれ異なり、習気や趣味もそれぞれ違い、性格や気質も異なるため、結合している以上は互いに折り合いをつけ調和しなければならず、そうでなければ非常に不愉快になる。それぞれに呼吸と心拍があり、飲食と水はそれぞれの胃に入り、個人が食べれば個人が満腹になるが、胃より下の消化系には共通部分があるため、これらの飲食を共同で消化し、その後共通の排泄系で排出する。個人がそれぞれの食事を取るとはいえ、互いに影響はあり、一人が病気になると、もう一人が代わりに薬を飲むことができる。

 二人は神経系の一部を共有しているため、外界へのストレス反応は比較的一致しており、対応の仕方も似ている。二人の意根は性情が異なるが、善縁があるため、共通の人や物事に対応する際には互いに協力し合い譲り合う。ここから見ると、二つの如来蔵の分業と協力は実に微細で微妙であり、如来蔵はあらゆることを知っているので、業種が許せば、如来蔵は間違いなく密接に協力し、言葉や心念を用いることなく調和工作を完了する。まさに不可思議である。

 六識の中で、二人の身識の相互協力が最も多く、ほとんど常に互いに協力し合わなければならず、そうでなければ何事も成し遂げられない。なぜなら神経系が関連しており、互いを感知できるからである。二人の眼根はそれぞれの頭にあり、眼識はそれぞれが使用するが、一つの身体にあるため、向き合う物色も大きくは離れず、眼界は制限を受ける。耳根は二つの頭にあり、それぞれに耳識があり、それぞれの音を聞く。鼻根はそれぞれの頭にあり、それぞれに鼻識があり、それぞれの香塵を嗅ぐことができる。舌根はそれぞれの頭にあり、それぞれに舌識があり、それぞれの味塵を味わうことができる。意根はそれぞれにあり、意識はそれぞれの勝義根にあり、異なる法を思惟し了別する。

 二人の五陰身が活動する時、二組の八識は互いに緊密に協力し合わなければならず、それぞれ分業があり、十六の識が分業協力することに相当し、八識よりもはるかに複雑である。腹部の下焦はほとんどが共用されているため、消化や排泄の際には心を一箇所に集中させ、共同の念、共同の感受を持ち、互いに分離してはならない。病気の時は二人とも病気になったのと同じであり、痛みの時は二人が同時に痛みを感じるが、それでもそれぞれの身識と意識が病痛を別々に感じるため、感受には多少の差がある。

 七識の中で、最も密接に関連するのは二つの身識の協力であり、一つの身体を共用しているため協力は非常に迅速で、ほぼ完璧に近く、わずかな違和感もなく、無理がない。最も重要なのは二つの意根の指揮と運営であり、もし二人の我執が共に強く、習気が全く正反対であれば、頻繁に口論することになる。二人は善縁であり、性格、気分、習気、趣味が異なるにもかかわらず、うまく調和し、心を一箇所に集中させ、互いに気遣い合うことで、初めてお互いに最大の受用を得ることができる。

 寝床で眠る時、二つの意根が一致して横になることを決定し、身体を自由に動かしてはいけない。もう一人に影響を与える恐れがあるからだ。もし一人が眠りにつき、六識が滅すれば、身識も滅する。もう一人がまだ眠っていない場合、身体を動かすともう一人の意識と身識を生起させ、目を覚ますことになる。もし心で考えすぎると、もう一人の睡眠にも影響する。なぜなら共通の神経系があるためであり、たとえそれがなくても、心念力や磁場力がもう一人に影響を与える。ここには多くの秘密が関わっている。

 もし一人の身体が次第に使えなくなる、あるいは死亡した場合、その人に属する色身の機能作用は働かなくなる。頭は機能せず、勝義根は破壊され、片腕と足は使えず、心臓は停止し、内臓はすべて使えなくなる。そしてもう一人がまだ生きていれば、不完全な身体を無理に使用することになり、その機能も大きな影響と制限を受ける。結局のところ、死亡した身体部分を完全に切除することはできず、いくつかの病気を感染させる可能性がある。たとえ病気の感染を防げたとしても、いくつかの機能の欠如により、生き残った人の五陰機能は大きな妨げを受け、生活は非常に不便になり、生命の質は大きく低下し、その寿命も長くはないだろう。

 生命がある限り苦受がある。ましてや正常な生命ではなく、二つの身体が結合した生命はなおさら苦しい。しかし衆生は生に貪るため、苦を感じない可能性があり、絶えず享楽を追求し、苦を楽しみとさえする。衆生はこのように無知で愚痴であり、貪欲が極めて強い。たとえどれほど苦しくても、苦から離脱しようとする考えや追求は一切持たない。智慧があれば愚痴はなく、貪求もなくなり、苦を知り断ち離れようと求める。したがって解脱の根本は智慧にある。

——生如法師の開示
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