衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年09月11日    土曜日     第1 回の開示 合計3504回の開示

識による証果の極めて頼りにならぬこと

問:ある人は、悟りを開いた後にはその内容を忘れてしまうと言いますが、忘れたならば悟った人とは言えないのではないでしょうか?どうして悟りを忘れることがあり得るのでしょうか? 

答:記憶と忘却は意識の作用です。意識は依他起性(えたきしょう)であり、生滅変化します。因縁が具わらない時、意識は衰弱し消滅します。例えば脳に病変があったり、刺激を受けたり、精神が傷ついたり、加齢による脳萎縮が起きることにより、意識の機能が衰えて正常に働かず、過去の人事物理を思い出せなくなる。これを忘却と呼びます。 

意識が消滅すれば過去の事柄を一切想起できません。睡眠中・昏倒時・死後・転生後には意識が消滅し、過去の経験は一時的あるいは永久的に消滅します。中有(ちゅうう)の身には微細な意識がありますが、その機能は制限され、業力に操られ、自らの意志で行動することはできません。

もし単に意識が悟りを得て幾つかの理を理解しただけなら、全く保証がありません。意識は因縁によって生じ、極めて速く変化します。何らかの影響を受ければ即座に変化し、何事かを忘れれば思い出せず、一瞬の瞼の隙間に心が空白状態になります。苦労して坐禅修行する過程を経ず、一足飛びに大まかな結果を知ろうとしても、意根(いこん)に熏習(くんじゅう)がなければ、その結果は簡単に失われ、何の功徳も受用できません。 

具体的な修道段階を経ず、辛酸を舐めて坐禅もせず、意根が熏習を受けなければ、意識の推論・想像・憶測に頼るしかなく、現量(げんりょう)が全く存在せず、全てが非量(ひりょう)となります。憶測の内容は当然瞬時に忘れ去られ、作用を起こさず、身口意の行いを指導できず、無間断の継続的な思想境界とは成り得ず、数分も続かず、滅することは必然です。

しかし苦労して坐禅参究する過程で意根が参与し、真如自性を悟得すれば、これが現量の智慧境界となり、三昧(さんまい)が現前し、身口意の行いが清浄となり、無間見道となります。この場合、意識が忘れようとしても忘れられず、失おうとしても失えず、退転しようとしても退けません。これは意根が主導権を握り、意根が悟れば意識は意根に随順し、その指揮支配を受けます。たとえ忘れても想起せざるを得ません。実際、意識が考えようと考えるまいと関係なく、意識が滅んでも問題ありません。意根が悟れば永遠に悟ったままです。睡眠中も昏倒時も死後も、中有にあっても悟りは持続します。 

仏道修行で意識のみを用いると大きな損をします。生滅変化する無常の意識に依存して生死の大事を解決しようとするなら、修行の本質を全く理解していないと言えます。自ら食事して自ら満腹になるように、外縁に依存し続けるのは危険です。縁は必ず滅します。無量劫の後まで依存し続けることはできません。故に智慧ある者は生滅を繰り返す不確かな意識に賭けず、世間・出世間の全ての事柄においてこれを肝に銘じます。改めて申し上げます:意識が証得する果位は全て紙で作られた果実のようなもので、紙質は最も腐敗しやすいのです。

——生如法師の開示
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