衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年09月04日    土曜日     第1 回の開示 合計3499回の開示

大乗と小乗における証得された空の相違

小乗が証得した五蘊の空と大乗が証得した五蘊の空には本質的な違いがあります。この違いがあるがゆえに、大小乗の修行者の心の広さも願力も道行きも異なるのです。小乗の修行者は解脱後に無余涅槃に入りますが、大乗の修行者は解脱後も永遠に無余涅槃に入りません。小乗が証得する五蘊の空は、外的現象の上で証得されるもので、五蘊現象の生住異滅を観察して得られた空です。この種の空は究竟しておらず、未だ徹底せず、偏りがあるため、智慧も浅く、行願も浅いのです。大乗が証得する五蘊の空は、五蘊の本質から証得されるもので、五蘊の本質が如来蔵から生じたものであることを見極めるため、もはや五蘊に執着せず、五蘊を滅ぼそうともせず、ゆえに行願が大きいのです。 

例えば、ある人々は人が生まれては死ぬのを見て、人が無常で滅びるものであり、捉えどころのない空であることを知ります。一方、他の人々はそれだけでなく、この人物が実は魔術師が幻化したものであり、生死が魔術師に掌握されていることを見ます。たとえ死んでも魔術師は再び幻化できるため、生死は全て仮相であると悟るのです。後者の人々はこの幻化された人に執取しませんが、故意に回避したり捨てたりもしません。 実際、小乗が考える空は「有」と対立する空であり、これは依然として別種の「有」です。小乗の空が表面的現象に留まっており、実質的な空でないがゆえに、彼らは滅ぼして用いない方法を考え、避けようとし、五蘊の世間を恐れるのです。これこそ別種の「有」なのです。真に空であるなら、何を避け、何を恐れる必要がありましょうか。もはや滅ぼす方法を考えることもないのです。例えば天女が花を散らす場面で、小乗の修行者は花が身に付くのを恐れ、花を避け、身に付いた花を払い落とし、花が身に付くのは法に適わないと考えます。一方、大乗の修行者はこれらの花を気にせず、全身に花が付いていても構わないため、かえって花は身に付かなくなるのです。 

なぜ大乗の菩薩はこのような心構えなのでしょうか。菩薩は花が幻化した仮相であり、何ら実質的な作用を持たないことを知っているからです。色身も同様であり、幻化の身と幻化の花に、何の障害がありましょうか。何が法に適わないのでしょうか。これらの法は自ら実証した後に体得すべきもので、実証がなければ、たとえ理解できても真の境地には至れません。小乗は確かに空が存在すると考えますが、大乗は空すらも空であると考えます。空空もまた空であり、空が尽きた時こそが真の到達点なのです。

——生如法師の開示
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