衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年08月28日    土曜日     第2開示 合計3497開示

丹霞禅師はなぜ木仏を焼いたのか

丹霞禅師が自性仏を悟り証得した後、心中では四相(我相・人相・衆生相・寿者相)を破っただけでなく、仏相すらも破り、真実の仏のみを認め、偽りの仏は認めなかった。木彫りや石造りの仏像はもちろん真仏ではないのだから、焼いても何の差し支えがあろうか?しかし真仏を証得していない者は決してこれを真似てはならない。真実を証得していない者は偽りの相が依然として存在しており、偽りの相を焼くことは真実の相を焼くことと同じであり、これは大変な罪過となる。仏を毀損し侮辱する果報は非常に悪い。古代、ある在家信者が悟りを開いた比丘の真似をし、仏菩薩の名を下着に書き記したところ、一両日中に吐血し、死亡したかどうかは記憶にない。また現代では観世音菩薩像を川に投げ捨てた者がおり、帰宅後は体中が冷たく濡れたように感じ、懺悔して補修するまで大病が治らなかった。

丹霞は宿世の善根が深く、悟りを開いた後は道行も浅からず、心は空で相がなく、よく橋の上に横たわり、のんびりとして何もすることがなく、人々は常に怪しんだ。悟りを得た者に、まだ何かあるだろうか?五蘊の世間はすべて空であり、相なく、願いなく、求めることもなく、人生はただ飯を食い眠るだけである。常に両脚を伸ばして横たわるのはごく当然であり、どうしてそれほど多くの用事があろうか?終日あちこちに求め、東奔西走し、忙しく立ち働いて、何を図るというのか?心が徹底して空になるまで、一切の法は自然に任運し、仏陀は自然に来て授記し成仏させるのである。まだ一法も空にならず、まだ一事を求めることがあり、なおも成仏して祖となろうと思うなら、仏陀が来て授記することは決してない。衆生を度すという名目で、己の私利を図り、仏教を烏煙瘴気にしている者たちは、おそらく仏陀の授記を得られないばかりか、仏陀の修理を受けることになり、因果は恐ろしい。

ある者は言うかもしれない、「私も木彫り石造りの仏像は真仏ではないと思う。私が焼いても問題ないだろう」と。それならば一つ焼いてみるがよい。五臓がことごとく焼け焦げ、耐え難い苦痛を感じるかどうかを見届けるがよい。自分がそう思うのは役に立たず、意識がそう感じても意味がなく、意根が認めなければ因果は確かである。自ら悟りを証得したと思い込み、自ら明心見性したと思う者が、仏菩薩の名をパンツの上に書いてみるがよい。木仏を焼き石仏を壊してみるがよい。もし何事もなければ、相を破った真の悟りと見なせる。丹霞禅師のように敢えてそうする者はいるだろうか?

ある者は言うかもしれない、「私に悟りを証明してくれた人は非常に道行が深い。私は信じている」と。しかし私は仏が最も道行が深いと言う。もし仏が証明したことが事実と合致せず、如来蔵が承認しなければ、因果はなおさら承認しない。もちろんこれは仮定の話であり、仏陀が証明することは絶対に事実に合致し、如来蔵にも合致する。ある者は非常に頑固で、何を言っても聞かず、ただ自分の感覚だけを信じる。しかし如来蔵はさらに頑固で、ただ事実のみを管轄する。因果は特に頑固で、あらゆる人と対峙することを厭わない。事実の前で頭を下げない者には、因果が対峙するのである。

——生如法師の開示
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諸仏菩薩は何故悪薫を受けざるや

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