衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年08月20日    金曜日     第2 回の開示 合計3492回の開示

十二因縁の観点から見る意根の心所法

十二因縁において説かれる無明縁行・行縁識・識縁名色という三つの段階は、衆生の生老病死の苦しみがすべて意根の無明によって引き起こされることを明らかに示しています。意根の無明によって、衆生は善悪の業と六道輪廻を持つに至り、したがって意根の無明は一切の煩悩を含み、あらゆる煩悩心所法を具えています。衆生は一切の煩悩を持つがゆえに分段生死と変易生死を経験しますが、意根の無明が完全に断じ尽くされると、衆生は仏となり、この時意根は一切の善心所法を具足し、常に意根の活動に伴うようになります。以前は恒常ではなく、特に凡夫の段階では、善心所法が意根に伴うことは稀でした。

要約すれば、意根は意識に劣らず一切の心所法を具えています。もし意根が一切の煩悩心所法を具えていなければ、心はそれほど染まらず、生死の業を造ることが少なくなり、苦受も減少するはずです。しかし衆生は無量劫以来、あらゆる生死の苦しみを具え、あらゆる生死の業を造ってきたことから、意根が一切の煩悩心所法を具えていることが分かります。もし意根が一切の善心所法を具えていなければ、心は完全に清浄にならず、仏となることはできません。しかし一切衆生は最終的に必ず仏となるため、意根は一切の善心所法を具えているのです。ただしこれらの善悪の心所法は常に意根に伴って活動するわけではなく、凡夫衆生の意根には、我見・我慢・我執・我痴という四つの根本煩悩が絶え間なく伴い、一瞬も離れることがありません。この四つの根本煩悩が生死の業と苦しみの根源であり、これらが引き金となって他の煩悩が現れたり隠れたりするのです。

我見の煩悩が断たれると、他の三つの根本煩悩も次第に断じられ、四つの根本煩悩が断たれれば、他の一切の煩悩もすべて断じ尽くされ、分段生死は終わります。したがって衆生が我見を断じた後、我見の煩悩は常に意根に伴うことも、断続的に伴うこともなくなります。我執・我慢の煩悩が断じ尽くされると、これらは永久に意根に伴わなくなります。我痴の煩悩も同様で、一旦断じ尽くされれば、意根の現行する煩悩は消滅し、命終すれば三界を出て無余涅槃に入ることができるのです。

凡夫衆生の意根は善心所法を具足せず、常に伴うこともなく、時折現れたり隠れたりします。しかし煩悩心所法が断たれると、善心所法は次第に具足され、常に意根に伴うようになります。これが聖者の心の働きであり、もはや凡夫のものではありません。要約すれば、凡夫衆生の意根には四つの根本煩悩が常に存在し、他の煩悩は時折現れます。瑜伽師地論もこのように論じています。凡夫の意根の善心所法も同様に断続的ですが、煩悩を断じて聖者となれば、善心所法は常に伴うようになり、最終的には恒常的となるのです。

近年、多くの人々が意根の心所法を大きく誤解してきました。その原因は定慧が著しく不足し、意根の心行を直観的に観察できず、理解力も不十分なため、菩薩の論述を誤解したことにあります。この誤解は今日まで続いています。大菩薩方の定慧の境地には差があり、論述に矛盾が生じる場合があります。そのような場合は、最も深い智慧を持つ弥勒菩薩の論述を主とすべきです。もし経典による裏付けがあれば、経典を優先します。経典による裏付けがなければ、真実の証量を基準とし、事実に基づいて判断すべきです。なぜなら事実は雄弁に勝るからです。

——生如法師の開示
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