粒子と波動の二重性、すなわち四大微粒子は波動性と粒子性を有する。波動性は粒子状態が極めて微細であり、肉眼では見えないことを示している。微細であるがゆえに波の状態を呈し、また四大微粒子が非常に多いことをも示している。「動」とは、四大種子の絶え間ない生滅が粒子に規則的な波動状態をもたらすことである。一見混乱しているように見えても、実際には規則性があり、粒子は軌道を持って生滅し、運動状態を呈している。粒子が運動できるのは、内部に空大種子によって形成された空間と空隙が存在するためであり、したがって全ての物質は五大種子によって構成されている。
しかしながら科学者が発見した物質には実体としての物質は存在せず、全て波動の形態である。これは仏法に符合する。色法は四大によって構成され、四大微粒子は絶え間なく生滅変化している。もし透視能力があれば、微粒子の波動による様々な現象、粒子群の動的な状態が見えるだけで、実体としての物質色法は存在しない。これが如来蔵の機能作用、すなわち如来蔵性である。科学者が観測している事象は事実に近づいている。我々学仏者はただ仏の説を信じるだけで、事実を観察できず、その所以を知らない。
光と光速は異なる概念である。光は物質色法であり、光速は心不相応行法であって、心所有法に属さない。量子力学には我々の仏法が必要とする重要な証拠が含まれており、如来蔵から生じる四大種子の運行に関する秘密に触れている。これにより如来蔵による万法の出生と執持作用をより深く理解し観行でき、また如来蔵が宇宙器世間の運行において果たす役割を理解することも可能となる。
エネルギーもまた四大微粒子であり、物質色法に属する。それは四大微粒子の運動の趨勢によって形成され、時に単独で存在し、時に物質に依存して存在する。物質を最後の微塵まで分割した時、それは極めて微細な物質色法であり、エネルギーと呼んでも差し支えない。義に依って語に依らず、正しい意味さえ伝われば、表現に誤りがあっても問題ない。
時間は心不相応行法であり、実在するものではない。物質色法に依存して存在する。例えば太陽の運行や地球の自転・公転に依存して初めて時間は表示される。したがって時間は暗物質に分類できず、物質でも心法でもない。
物質世界もまた三つの能変識から来ている。もし科学者、物理学者、生物学者らが、第八識が一切の物質色法を創造し維持していること、第七識である意根が第八識の創造と変革を推し進めていることを知るならば良いのだが。物質を創造する考えは第六識から生じ、第六識の考えが意根に伝えられる。すると意根が決定を下し、決定後に第八識が協力する。三能変識が和合して物質世界を創造するのである。
世俗の各分野の研究者は、如来蔵を受け入れる信仰を得て、さらに如来蔵を証得できれば、その智慧は並外れたものとなる。しかし彼らには善根と大乗の福徳が欠けており、心が仏門に帰依せず三宝に帰依しないため、不生不滅の理に触れることができず、掌握できない。
これらの内容は全て道種智に属する深遠なものであり、娑婆世界の仏経には記載されていない。仏はあまりに具体的で微細な唯識種智の内容を説かず、大きな枠組みのみを説き、衆生が地前菩薩のレベルまで修行できるようにされた。深遠で具体的な内容は地上の菩薩に専ら説かれ、仏のそばに随って初めて学ぶことができる。
今や理解できた。仏が自ら説かれた法は爪の先の土ほどであり、未説の法は大地の土ほど多いと。道種智の内容がいかに深遠で広大かつ微細であるか、あらゆる側面、世間の各分野を含んでいるかを。
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