衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年02月10日    土曜日     第5 回の開示 合計12回の開示

覚醒直前及び臨終直前における心識の音声の法塵に対する了別

問:私の寝ている場所には常に阿弥陀仏の聖号を流すプレイヤーが置いてあります。ある日うとうとと眠っていた時、声が聞こえました。その時私はこれが阿弥陀仏の聖号を唱える声だと心では知っていましたが、懸命に聞き取ろうとしてもその声を識別できず、しばらくしてやや意識がはっきりしてきた時、再びこれが阿弥陀仏の聖号を流す声だと認識できました。

この現象をどのように理解すべきでしょうか。眠気で朦朧としている時、単に音声を聞いている状態は、耳識が声塵を受け取っているが意識が法塵を識別するほど覚醒していない(ただし当時自分では十分に意識があると思っていた)ということなのでしょうか。

これは人が臨終を迎える時も同様で、意識が既に朦朧としており、念仏サポートの声が何を唱えているか識別しにくく、あるいは全く聞こえない状態になることを示しているのでしょうか。

答:意識が部分的に覚醒しているが耳識がまだ現前しておらず、聞こえる音声がぼんやりしている状態です。また覚醒直前に、意根も念仏の声を聞くことができますが、意根は往々にして識別が曖昧で、誤った了別をすることもあります。ただし常に念仏の声を聞き慣れている場合、意根は混乱せず了別しますが、依然として明確には了別できません。

意識が清明な時は意根を把握しやすいものです。覚醒直前の心識作用は意根に属し、これも意根を把握しやすいのですが、意識は回想を必要とし、その了知性は比較的低くなります。

人が臨終を迎える時、四大の分解により身根が解体され、特に苦痛を伴うため、意識は現前する音声の法塵を識別する心力と精力をほとんど持てず、知覚する法塵は曖昧になります。さらに勝義根の四大が分解されるため、外六塵が勝義根に伝わる内六塵は次第に減少し曖昧になり、意識が感知するものはますます弱く不鮮明になります。

ただし平常の修行が功を奏し、善根が深く福徳が厚ければ、仏力の加護を得て心が乱れず、往生を遂げるか、あるいは善道に生まれることができるのです。

——生如法師の開示
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