問:私の寝床には常時阿弥陀仏の聖号を流す再生装置が置いてあります。ある日、うとうとと眠っている時に声が聞こえ、その時はこれが阿弥陀仏の聖号を唱える声だと心では理解していました。しかし懸命に聞き取ろうとしましたが、その声を弁別できず、しばらくして少しはっきり目覚めた際に、ようやくこれが阿弥陀仏の聖号を流す声だと認識できました。
この現象をどのように理解すべきでしょうか。睡眠中に朦朧としている時は、単に音声を感知しているだけで、耳識が声塵を受け取っているものの、意識が明晰さを欠いて法塵を弁別できていない状態(ただし当の本人は自覚上は非常に明晰だと思っている)ということなのでしょうか。
これは人が臨終を迎える時も同様で、意識が既に混濁しており、助念団が何を唱えているのか弁別が困難、あるいは全く聞こえない状態になるということでありましょうか。
答:意識が一部分覚醒しているものの、耳識がまだ現前せず、聞こえる音声はぼんやりとした状態です。さらに、目覚める直前にあっては、意根も念仏の声を聞き取ることができますが、意根は往々にして弁別が不正確で、了別が錯乱することもあります。ただし常日頃から念仏の声を聞き慣れている場合、意根が非常に熟知しているため、了別が錯乱することはなくとも、依然として了別は不明瞭なままです。
意識が明晰な時は、意根を捉えやすいものです。目覚める直前の心識の作用は意根によるものであり、これも意根を捉えやすい局面ですが、意識は追想・回想を必要とし、その了知性は比較的低くなります。
人が臨終に際しては、四大の分解に伴い身根が分解するため、特に苦痛が激しく、意識が現れる音声の法塵を弁別する心力・精力をほとんど持たず、知覚される法塵は曖昧模糊としたものとなります。加えて、勝義根の四大が分解するため、外部の六塵が勝義根内部の内六塵に伝達される量が次第に減少し、ますます不明瞭になることで、意識が感知するものは次第に微弱化・不明確化していきます。
しかしながら、平生の修行が功を奏し、善根が深く、福徳が厚い場合には、仏力の加護を得て心が錯乱せず、往生を遂げること、あるいは善趣に往生することが可能となります。
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