この「知」は主に意識の知であり、背後には意根の知も存在します。証悟における知とは智慧的な知であり、悟り以前の知とは異なります。悟り以前は意識が如来蔵を推測する段階で、意根は法界の実相を知らず、五蘊を我と認めるため、二つの識ともに智慧を有しません。悟り後、意識は如来蔵を証得し、意根は法界の実相を知るに至ります。この智慧は計り知れぬもので、煩悩は次第に脱落し、無明は徐々に減少し、我執はますます軽減され、最終的に識を転じて智と為すことが可能となります。故に証悟とは必ず意根も同時に証悟するものであり、さもなければ意根に証悟の智慧が生じず、煩悩を断除できず、識を智に転換することはできません。
悟り後の境地はただ証して初めて知るもので、言葉では完全に表現し尽くせません。あたかも人が蜂蜜を口にした時、その甘さを完全に理解できるのは自分自身のみであるように、いかに人に説明しようとも、他者はただ理解するだけで真実の体得には至りません。自ら味わい、自ら感じ得たものではないからです。よって意識が推測によって得た如来蔵の解悟と、意根が直接証得した如来蔵の証悟との間には、智慧の差も極めて大きく、受用の差も甚だしく、その後の修行は天地ほどの隔たりが生じます。
6
+1