問:五遍行は起心动念など最も基礎的な層面であり、五別境は道業を成就する智慧の層面に関わるものですが、そういうことでしょうか?
答:必ずしもそうではありません。五別境の心所法である欲・勝解・念・定・慧は、出世間法を成就する鍵であるだけでなく、世間法を成就する鍵でもあります。
例えば欲心所について、衆生は何かを求めさえすれば、それが出世間法のことでも世間法のことでも、すべて一種の欲望であり、六・七識の欲心所です。その中で、起こるのも早く消えるのも早く、環境の影響を受けやすいのは意識の欲望です。一方、深層の欲望で、制御できず把握できず根深く固まったものは、必ず意根の欲望です。
例えば、極楽往生を願うのは欲望であり、意識心によるものもあれば意根によるものもあります。意根の欲望を深切な信願と呼びます。もし意根の深切な信願がなければ、ただ意識が往生を願っているだけであり、それは無意味で、根本的に往生は叶いません。成仏を願い、参禅を願うのも、意識心の欲望もあれば意根の欲望もあります。もし意根の欲望がなければ、六識はまったく精進できず、参禅や学法、成仏といったことは一切成就できません。
出世を願い財を成すことや、ある事業を成就したいという願いにも、意識の欲望もあれば意根の欲望もあります。もし意根に欲がなく、したくないことがあれば、意識がどれほど欲しても、どれほど望んでも無意味です。なぜなら、意識は主導権を持たないからです。
また例えば勝解心所法には、意識の勝解もあれば意根の勝解もあります。通常、意根は六塵境界を了別する智慧が不足しているため、六塵境界を勝解することは難しく、必ず六識を借りて六塵の具体的状況を了別しなければなりません。六識が了別した後、状況を意根に報告します。もし意根が六識の報告した状況を勝解できなければ、迅速に選択を下すことができず、正しく理にかなった選択を下せません。そうなると六識はよく過ちを犯すことになります。もし意根が六識の報告状況を勝解できれば、正しく理にかなった、適時かつ迅速で正確な選択を下せます。意根が勝解できないことについては、正しい選択も下せず、意識に従って選択を下すこともできません。理解できず勝解できないからです。
観行による我見断ちや参禅の際、もし意根が五陰無我の理を勝解できず、般若の理を勝解できず、如来蔵の法を勝解できなければ、我見を断つこともできず、明心見性もできず、煩悩を断ち切ることもできず、生死を解脱することもできず、三界を出離することもできず、ましてや識を転じて智とし仏道を成就することなど到底できません。
また例えば念心所について、誰の心も何らかの法を念じています。世俗法を念じることもあれば、仏法を念じることもあります。ここには意識の念もあれば意根の念もあります。意識の念には、境界の影響を受けて生じるものもあれば、より多くは意根の指図や牽引によって生じるものもあります。意識の念は生滅変化が非常に速く、また浅はかです。意根の念は往々にして深く長く、念々に留まらず、念々に変わることがありません。例えば誰かを想い続け、ある事柄やある法を念じ続けるのは、比較的頑固な場合があります。
また例えば定心所は、仏法に定めることもできます。参禅や念仏、座禅などです。世俗法に定めることもできます。科学研究に取り組む、あるプロジェクトに専念するなどです。ここでの定には意識の定もあれば意根の定もあります。意識に定があれば、細やかに思惟し観行し、注意深く分析研究し推理することができます。しかし意識の定もまた意根の定の結果であり、意根が監督・調整した結果です。もし意根が仏法に定まらず、科学研究やプロジェクトに定まらなければ、意識は仏法や科学研究に専心できず、成果は生まれません。
慧については、意識の慧もあれば意根の慧もあります。仏法において智慧を持つこともできれば、世俗法において智慧を持つこともできます。
したがって、五別境心所法は六・七識の双方に存在し、世出世間の一切の法を成就する鍵であり、非常に重要な心所法です。六・七識に五別境心所法がなければ、多くの法が現起できず、道業を成就できないばかりか、世俗法すら成就できません。
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