面と向かって懺悔することは、二人の如来蔵にある種子を消し去ることですが、そのためには、この人が誠心誠意に懺悔し、あの人が誠心誠意にその懺悔を受け入れることが必要です。そうして初めて怨みを解き、わだかまりをほぐすことができます。なぜ誠心誠意の懺悔と誠心誠意の受け入れが必要なのでしょうか。誠心、真実とは、意根が心の底から悔い改めること、意根が心の底から受け入れることを意味します。意根が悔い改め、受け入れることによってのみ、二人の如来蔵が改めて記録を行い、二人の如来蔵にある過去の業の種子が相殺されるのです。如来蔵にある業の種子が消え去ったため、二人の間に怨みのわだかまりはなくなります。
地上の菩薩が自らの如来蔵にある業の種子を変えるとは、意識で染め上げて意根を説得し、意根に自らの煩悩習気の有害性を見極めさせ、決心して悔い改めさせることであり、それによって心性が変化し、如来蔵にある業の種子が消え去るのです。地上の菩薩は、その深遠な禅定力と智慧力、そして福徳力によって、自らの意根の心の働きと習気を変え、自心を清浄にすることで、自らの如来蔵にある業の種子を消し去ることができるのです。
一方、意識による見せかけだけの偽りの懺悔には何の実質的な効果もなく、むしろ心の内を見透かされることがよくあります。
意識は懺悔したいと思っても、意根の煩悩習気に抗いきれない場合、どうすればよいのでしょうか。その時は常に意根を責めるべきです。他人を責めることができれば、自らを責めることもできるはずです。自らを責めるとは、その心を自ら責めることです。自らの不善な心の働きをすべて暴き出し、晒し出さなければなりません。意根がそれを嫌がり、喜ばなくても、時にはそうする必要があります。もし意根がどうしても受け入れられず、習気が強すぎるなら、無理に急いで進めようとせず、少しずつ試しながら進め、急ぎすぎないようにしてください。そうしなければ逆効果となり、自暴自棄になることもあり、それは非常に致命的です。
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