いかにして意識が知識や理論の学習のレベルに属し、意根が実証のレベルに属することを証明するか。例えば料理という法について、まず意識は料理の理論的技術を学ぶ必要があり、理論を習得したからといって料理ができるわけではない。この料理という法に関しては、実証されていないことを示している。
では、いかにして実証するか。自ら料理の練習をすることが必要である。そして料理の練習は実際の操作に属し、実際の操作には意根による指揮と監督が必要である。もし意根が理論を理解していなければ、六識に料理をさせるよう監督できない。こうして意根は繰り返し六識に料理の練習を指揮させ、間違えた場合には意識がどこが間違っているか、どう操作すべきかを思惟分析し、これが意識が意根に操作の練習を指揮する過程である。
意根が操作を習得した後は、意識による分析や監督はほとんど不要となり、意根は非常に熟練して六識に料理を指揮できるようになる。その後はさらに熟練の域に達し、技術は非常に巧みとなる。軽車熟路(慣れた者は容易に事を処理できる)とは、意根が掌握した技術レベルのことを指す。
したがって、意識は理論に対応し、意根は実際の操作に対応すると言える。意識が知る理論は大して役に立たず、意根が実際に証得して初めて大きな有用性を発揮する。親証とは、意根が自ら証得することを指し、意識が他から学んだ知識や理論ではない。
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