衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年02月14日    水曜日     第2 回の開示 合計43回の開示

意根と生得の大智慧

第六識と第七識の智慧の違いは、意根が意識のように六塵の境界に対して細やかで具体的な了別を持たない点に過ぎず、それ以外の面では、意根の慧は非常に優れたものである。我々が世間の事柄、特に非常に緊急な事態や慌ただしい出来事に対処する際、多くは意根の経験と慧に依存しており、意識では対応しきれず、分析も処理も追いつかず、意根の指揮と采配に従うしかない。時には随縁と呼び、時には運命に委ねるとも言えるが、最終的には解決され、時には非常に円満で心に適う結果となる。

意根は独特の大智慧を有している。危機に際しても動じず、冷静沈着で秩序整然、物事を乱さず、雄大な志と寛容な度量など、これら全てが意根の慧であり、実に驚異的である。特に多生にわたり人間として、指導者や将軍、大臣などを歴任した経験豊富な者ほど、意根の慧が強力で、万事の処理判断を意根の慧に委ね、意識は往々にして無念無想の状態にある。

大将軍が戦場で指揮を執る際の緊急の決断や重大な戦略は、往々にして意根の無言の智慧と深慮に依っており、意識は通常役に立たない。福徳を備え、自主性と深慮を持つ者は、事態に直面しても平静を保ち、急いで対応したり決断を下そうとせず、時至れば自然と方策が浮かぶもので、これこそ意根に依るものである。意根は自ら方策を有し、主体性の根幹も意根に依る。俗に言う「老獪な判断力」とは、意根が自らの主張を持ち、意識が関与する必要がない状態を指す。

大智慧を有する者、聡明な者、理性的な者、教養ある者は、依然として意根の智慧を主とし、意識は狡知や策略を巡らさず、意根が自らを整える。この種の大智慧は、意根の思量の結果であり、また意根が長年の経験を積んだ帰結である。人材を即席で育成することは不可能であり、つまりその者の意識に学習させ、意根を薫習させる時間的余裕はない。必要な素質はあらかじめ備わっており、先天的に具足しているもので、それが意根に内在する、既に薫習を完了した生来の智慧なのである。

所謂る慧根、善根、福徳とは、まさに意根に具わる生得的なものを指すのである。

——生如法師の開示
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