衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年02月14日    水曜日     第1開示 合計42開示

意根の独特な思量性

意根の思量性たる念を離れた霊知の心は、意識の無念時に六塵を了別する状態を指すほかにもう一つの心がある。それには言語や表面的な思惟分析作用はないが、六塵の境界及び六塵以外の法を知ることができ、より霊妙に、より隠微に、より深沈に、より思量性を帯びており、思量の力はより大きく、問題解決能力はより強大である。それがすなわち意根である。意根は意識のように六塵の境界を思惟分析することはできないが、意根には独自の思量性があり、しかもその思量性は非常に強い。衆生は主に意根の思量性に依って決定を下し、主宰を行う。例えば夜に未解決の問題を抱えたまま眠りにつき、翌朝目を開けた瞬間に意識が気づく:そういうことだったのか!と問題が解決される。多くの事柄は意識では分析解決できず、放置しておくと、いつしかひらめきを得て解決に至る。これが意根の思量作用であり、それは密やかに音もなく思量を続けており、意識はそれを知らない。例えば意根が前世の遺骨の問題を解決する場合、意識は如何にしても知り得ないが、意根は単独で解決策を思量する。また意根が他人の夢に入り、あるいは説法をしたり、何かを依頼したりするのも、全て意根の単独運作であり、その中には常に意根の思量性が働いており、意識はそれを知らない。さらに多くの事柄で意識は理解できず解決もできず、放置して他のことに移るが、いつしか突然ひらめきを得て解決に至る。実はこの過程で意識は一時的に放棄し、思惟分析を止めているが、後になってなぜ理解できるようになるのか?それは意根が放棄せず、常に心に留め、気にかけ、思量し、琢磨し続けているからである。意根の心所法は常に運作しており、意識のような顕著な思惟分析作用はないが、意識の思惟分析機能とは若干異なるものの、その思量性は依然として非常に強い。実際、意根が思量する法は極めて多く、範囲も非常に広範であり、意識が知り得るのはごく一部に過ぎない。意識に智慧がない時は、意根の思量性を全く理解できない。意識が理解しようとしまいと、意根には独自の思量機能作用と思量方式がある。意根が六塵上で思量する法は、意識に知らせてもよいし、知らせなくてもよい。これは知らせるか否かの問題ではなく、意識に智慧があるかどうかによる。多くの法は、たとえ智慧ある者でも意根が何を思量しているかを知る術がない。意根の思量結果は時に意識が知り得ることもあるが、実際にはほとんどの場合、意識は知らない。意根が思量を終え結論を出す:この件は重要だ!重要な問題は六識に実行解決させねばならず、六識に知らせる方法を考えねばならない。もし重要でなければ、意根が単独で解決できるため、意識には知らせない。すると意識が無知覚あるいは鈍感で覚知性を欠く状態では、意根が思量して得た法の結論を意識は全く知らない。たとえ意識が知らなくても、意根は相変わらず六識を指揮して実行に移させるのである。

——生如法師の開示
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