疑いを断つことで初めて信が生じる。疑いが決断されず、信根が具足しない限り、実際に如来蔵を証得して初めて疑いを断ち、確信を得て、徐々に如来蔵へと転依できる。解悟や推測によるものには、このような功徳と受用がない。
如来蔵に学び、如来蔵へ転依するのは、まず意識の課題である。意識が明らかに学び終えた後、意根に教えを転じる。意根が如来蔵に帰依し、如来蔵を手本とし、常に如来蔵の体性に依止して、意根の我性を降伏させ、無明を薄め、識を転じて智と成し、仏道を成就するのである。
転依の前提条件は必ず証悟でなければならない。解悟では真実の転依ができず、解悟では如来蔵の運作を観察できず、有為法の運作における如来蔵の無我性と如如性を知ることができないため、真に転依する方法がなく、推測に過ぎず、内心の疑いを断ち切れない。故に自心を変えることができない。自ら実際に目の当たりにした事柄、真実の証悟によってこそ、百パーセント信じ、疑いを断つことができる。そうでなければ、たとえ如来蔵がこのように清浄であることを推測し、一時的に自らの信受を抑えることができても、内心深くの疑いは断ち切れず、結縛も断ち切れない。結を断つとは、生死の根を断つことであり、草を刈り根を断つこと、これは極めて重要である。
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