衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年02月16日    金曜日     第5開示 合計58開示

無我の覚受を証得する重要性

衆生は皆、覚受を真実のものと見なし、自我と見なし、自己の所有と見なし、そして覚受を追求し、満足させ、従順に従い、自身の覚受のためにあらゆる業行を造作することを惜しまず、特に悪業行を造作する。

我々が生死の苦を解除しようとするならば、覚受の虚妄性、不実性、幻化性、空性、非我性を観じ修行しなければならない。そうすれば、覚受が確かに空幻で、不実であることを証得でき、もはや覚受を重視せず、また追求しなくなる。これにより一に我見が断たれ、二に心が次第に清浄となり、貪瞋痴の煩悩が徐々に薄らぐ。覚受を追求しなければ、貪瞋痴の煩悩という無明の悪業を造作することはない。

覚受は如何にして空であり、幻化であるのか。覚受はどこから来るのか。覚受は主に六識の覚受である。実際にはその後ろにある意根の覚受も非常に重要であり、意根に覚受がなければ、六識に貪染の業を造作させたり、ましてや解脱を求めたり、精進して仏法を修学させることは不可能である。六識の覚受は一方で意根から来ており、意根の影響と指揮を受けている。他方、六識自身が六塵の境界を了別する際、境界の影響を受け、境界に対して貪厭を起こす。受心所法が現れると、苦楽受が生じる。

六識の覚受は如何にして現れるのか。如来蔵が識種子を出力し、六つの識を形成する。六識が生成されると運行を開始し、五遍行心所法および五別境心所法が現れ、それにより六塵を分別し、六塵を執取し、境界に対して覚受が生じる。その後、この覚受を真実と認め、自我と認め、己に順うものには貪を起こし、己に逆らうものには瞋を起こし、貪瞋痴という無明の業を造作することになる。その後、生死輪廻の果報が絶えない。ならば我々が覚受を空と観じれば、貪瞋の心は降伏できる。この事は非常に重要であり、五陰無我を証得し、覚受もまた非我であることを悟ることは、最も重要である。

——生如法師の開示
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