衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年02月17日    土曜日     第1開示 合計61開示

『誰が我見を断つか』

衆生は皆、五蘊を我と見なしていますが、では誰が五蘊を我と見なしているのでしょうか。衆生とは誰を指すのでしょうか。衆生とは主に末那識(意根)を指します。維摩経には「衆生の心行を了知する」とあります。誰が衆生の心行を了知するのでしょうか。如来蔵が衆生の心行を了知するのです。この衆生とは誰を指すのでしょうか。末那識を指します。なぜなら如来蔵は主に末那識の心行を了知し、この末那識が衆生を代表しているからです。末那識は五蘊を我と見なし、受蘊も我と見なし、色蘊も我と見なし、さらに想蘊を我と見なし、行蘊を我と見なし、さらに識蘊である六識を我と見なします。また如来蔵の様々な機能や体性も我(末那識)のものと見なし、これら一切の法は全て私が作り出したもので、全て私の所有に属すると考えます。したがって、この「我」は主に末那識を指します。

では我見を断つとは誰の我見を断つのか、今や非常に明らかです。我見を断つとは主に末那識の我見を断つことです。末那識がこれら一切の法を我と見なしているため、我見を断つとは末那識に五蘊がもはや我(末那識)ではないと認識させることです。末那識のこの知見を断除することが我見を断つことに当たります。

したがって我見を断つには必ず末那識に触れなければならず、末那識が五蘊が私ではないと認めて初めて我見を断ったと言えます。なぜならこの「我」とは末那識を指し、六識の意識心を指すのではなく、主に末那識を指すからです。末那識は識蘊である六識、受蘊、想蘊、行蘊、色蘊の全てを我と見なしているため、我見を断つとは末那識にこれら諸法をもはや我と認めさせないことです。もし末那識が我見を断たず、意識だけが我見を断ち、意識が五蘊は私ではないと認識しても、これは我見を断ったことになるのでしょうか。今のところ明らかなのは、意識が私ではないと認識しても無意味であり、これは我見を断ったことにはならないということです!末那識が五蘊は私ではないと認めて初めて、我見を断ったと言えるのです。

私たちはこれほど多くの無我の理を学び、五蘊は私ではない、全て空である、一切の法は幻化であると感じていますが、感じることは感じるにしても、畢竟それは証得ではなく、したがって内心はまったく空ではありません。これはその感じが意識心の感じであり、意識心が感じるものは実用的ではなく、意識は主導権を持たないことを示しています。主導権を持つ末那識は感じず、実証もないため、心の中の私は相変わらず私であり、執着すべきものには相変わらず執着し、生死の束縛は一つも断ち切れません。なぜなら意識心が学んだこれらの法はまだ末那識に熏染されておらず、末那識はまだこれらの法を理解せず、これらの法を認めず、これらの法が全て虚妄であることを知らないため、三縛結は断たれないのです。

したがって五蘊や六塵が虚妄であると感じ、一切の法が幻化であると感じることは、意識が学習を通じて得た知見に過ぎず、知見だけがあって実証がなければ、机上の空論と同じで、束縛を断除できず、心の奥底では相変わらず接触する一切が真実であると感じ、これらのもののために依然として執着し、執取し続けるのです。末那識が五蘊無我を証得せず、一切の法の虚妄性を証得していなければ、意識心が理論的に理解するだけでは効果がなく、これは実証とは呼べません。 

大乗仏教であれ小乗仏教であれ、世間の様々な教理であれ、これらの法を証得するとは必ず末那識が認め証得し、末那識が確認することを意味します。もし末那識が確認しなければ、学ぶことは全て意識心が覚知したもの、意識心の感受、意識心が学んだ知識に過ぎず、それでは真実の受用はありません。なぜなら六識は主導権を持たず、主導権を持つのは末那識だからです。末那識が「我」であり、意識は末那識に執取された「我」の作用です。したがって我見を断つとは末那識の我見を断つことであり、証悟とは末那識が真の我——第八識である如来蔵——を証得することなのです。

——生如法師の開示
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五蘊において意根ただ一つが主識である

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