仏道を学ぶ者の中には、経文に極めて精通し、開口即ち誦ずるが如く、一見その意義を理解しているかに見えるものの、実は真に悟ってはいない場合があります。経文が過度に熟知されているため、かえってその真義を再考する機会を失い、表面的な解釈に留まってしまうのです。経典を読誦し暗誦する行為は、意識作用を主とする心理活動であり、比較的労力を要さず、深く思索する必要がなく、脳にも心にも負担がかかりません。これに対し深い思索は意根を動員し、大脳神経細胞を活性化させ、大量のエネルギーを消費します。身体は絶え間なく大脳に気血資源を供給せねばならず、心に疲労を覚えるため、衆生はより容易な行為を選択し、ただ経典を読み誦するに留まります。さらに定力と慧力が不足しているため、深い思索を行うことができないのです。
経典読誦や呪文唱持は、いずれも意識を主軸とする心の活動であり、意識作用が顕著に表れます。楞厳呪の暗誦も同様に意識を主体とし、その作用が突出しています。完全に暗記した後は、意識が迅速に誦出を司り、雲行水流の如く極めて流暢に、思考を介さずに誦することが可能となります。もし暗誦速度を幾分緩めれば、意識の作用は減退し、意根の働きが徐々に顕在化します。さらに速度を低下させれば意識活動は弱まり、意根の作用がより強化され、速度が遅くなるほど意根の役割が際立ちます。結果として、意識活動が少なければ少ないほど暗誦は不自由となり、遂には記憶内容を想起できなくなるのです。
これは意根が追想機能を有さず、経文を暗誦できないためです。記憶想起は意識の機能に属し、意識活動が減退すればその機能発揮も縮小し、暗誦は困難を極めます。覚醒状態において意識活動が少なければ少ないほど、禅定は深まります。禅定が深まるにつれ、意識の顕現作用はさらに減少します。意識活動が一定水準以下に低下すると、もはや経文を誦することすら叶わず、口は動かず一文字も発せられなくなり、ついには心念までもが停止し、心中にて密かに誦することさえ不可能となるのです。
よって禅定を修め参禅を成就せんとするには、身口意の三業を緩やかにし、意識活動を抑制しつつ、意根の直観作用を増強させねばなりません。意根の直観作用が一定の域に達すれば、行住坐臥の中で色身の機械的性質を直接感知できるようになり、これによって身見を断じ、或いは我見を絶ち、あるいは明心に至る可能性が生じます。禅定はまさにこのような作用を発揮するのです。
禅定が未熟か浅薄な段階では、意識の分別作用が極めて活発であり、これが読誦や暗誦、知識習得の機能を担います。意識の思考が如何に敏捷で聡明であろうとも、その習得は浅薄に留まり、理解の範疇と知識の次元を出ず、内心深く真義を悟ってはいません。これは意根が証得されていないためです。意識によって獲得されたものは全て他者の思想であり、たとえ仏説や仏所証の内容であれ、自己が実際に証得したものではなく、知識次元のものに過ぎません。このように習得した知識を、自己が証得したと外界に表明してはなりません。自らが一時的に未証明であり、証拠を把握していないからです。意根が意識と協調し深く思惟検討を重ねた後、真に証得した思念のみが自己の見解となり、初めて「私見では如何々と考える」と表明できるのです。さもなくば、それは単に意識の推測に過ぎず、意根と無縁のものであり、真の智慧とは言えません。
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