衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年02月19日    月曜日     第3開示 合計75開示

読誦と暗誦とは意識心を主とする心の作用である

仏道を学ぶ人の中には、経典に非常に詳しく、口を開けばすぐに引用できる者がいるが、その意味を理解しているように見えて、実際には本当に理解していない。経文があまりにも慣れ親しんでいるため、その真の意味を改めて考えることが難しく、表面的な理解の段階で止まってしまう。経典を読んだり暗唱したりすることは、意識が主に働く活動であり、比較的労力が少なく、深く考えずに済み、脳も心も疲れない。一方、深く考えることは、意根を動員し、脳の神経細胞を刺激し、脳のエネルギーを消費し、身体は絶えず脳に気血の資源を供給し続けなければならず、心が疲れると感じる。そのため、衆生はより楽なことを選び、ただ経典を読み、暗唱するだけとなる。さらに、定力と慧力が不足していると、深く考えることができなくなる。

経典を読んだり真言を唱えたりすることは、いずれも意識を中心とする心の活動であり、意識の作用が顕著である。経文や楞厳咒を暗唱することも、意識を中心とし、意識の作用が際立つ。暗唱に熟達すると、意識は素早く暗唱できるようになり、非常に流暢に、雲のように流れ水のように滑らかに暗唱でき、思考を必要としない。暗唱が少し遅くなると、意識の作用はやや弱まり、意根の作用が少し目立つようになる。さらに遅くなると、意識の活動は弱まり、意根の作用は強まり、遅ければ遅いほど意根の作用が顕著になる。結果として、意識の活動が少なければ少ないほど、暗唱は流暢さを欠き、ついには暗唱すべき内容を思い出せなくなる。

なぜなら、意根は記憶を呼び起こすことができず、経文を暗唱することはできない。記憶は意識の機能に属し、意識の活動が弱まると機能の発揮も小さくなり、暗唱は困難になる。覚醒状態では、意識の活動が少なければ少ないほど、定は深くなる。そして定が深まれば深まるほど、意識はますます現行活動を減らす。意識の活動がある程度まで小さくなると、もはや経文を暗唱できなくなり、口が動かせず、一文字も発せられなくなる。心の念さえも止まり、心の中でさえも黙誦できなくなる。

したがって、禅定をよく修習し参禅できるようになるためには、身・口・意の行いをすべて遅く、遅くし、意識の活動を減らし、意根の機能を強化してその直感作用を顕著にしなければならない。意根の直感作用がある程度に達すると、行住坐臥の中で直接に色身の機械化を感じ取り、それによって身見を断つか、あるいは我見を断つか、明心するかは定かではないが、定はまさにこのような作用を起こすのである。

定がないか、あるいは定が浅いときは、意識の了別作用が非常に活発であり、それは読誦や暗唱の作用、知識を学ぶ作用を起こす。意識の思考が非常に活発で、非常に聡明であっても、学んだことは浅く、理解の範囲や知識のレベルに属し、心の奥底ではまだ深くその意味を理解していない。なぜなら、意根が証得していないからである。意識が学んだものはすべて他人の思想や見解であり、おそらくは仏の説かれた仏の証得したものであっても、自分自身は実際には証得しておらず、すべて知識レベルのものに過ぎない。このように学んだ知識は、自分が証得したもの、自分がすでに証明して正しいと確認したものとして外部に語ることはできない。なぜなら、自分は結局のところ一時的にはまだ証明しておらず、証拠も見つけていないからである。意根が意識に協力し、深く思量した後、真に証得したとき、その思惟こそが自分の見解であり、自分の見地となり、はじめて外部に向かって「私はこう思う」と言えるのである。そうでなければ、「私はこう思う、こう感じる」と言うべきではない。どうしても「私はこう思う、こう感じる」と言うなら、それは単に意識の思うこと感じることであり、意根とは関係がなく、まだ真の知見ではない。

——生如法師の開示
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前五識は独影境の法塵を了別することができない

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