心を調伏する目標は、意根(末那識)を調伏することにある。顔色一つ変えず、心臓の鼓動も乱さず、意識が情報を受け取った後も、意根はそれを受け入れず、気に留めない。心に留めないとは、すなわち意根の心に入れないことである。「左の耳から入って右の耳から抜ける」というのも、意根が気にせず、心に留めないことを指す。俗に「大根の様に無反応」と言うのは、他人が何と言おうと、意根が動じないことを意味する。真に動揺するのはやはり意根を指し、意根が動けば心念が生じ、身心に反応が現れる。
では、調伏すべき「心」とは意識の心なのか、それとも意根なのか。あるいは両方を含むのか。それは意識の心に生じる貪・瞋・痴の念から着手し、それによって次第に深く入り、徐々に薫習・転化を重ねて意根の貪・瞋・痴を調伏する。両方が調伏されてこそ、真の調伏と言える。意識だけを調伏しても意味がなく、もし意根が意識に貪瞋痴を起こすよう指令を出せば、意識は抗えず、従うほかない。
貪・瞋・痴が身心や世界に及ぼす毒害作用は、実は全て意根が引き起こす煩悩によるものであり、それが身心に影響を与え、身心に悪い反応を生じさせる。意識単独で煩悩を起こしても、身体にはほとんど影響がない。しかし意根が煩悩を起こせば、それは大変なことになる。途方に暮れ、食事も喉を通らず、安眠もできず、すぐにのぼせ、顔色や血色さえ変わり、焦燥感が漂い、身体的疾患さえ現れうる。最も手強い存在はやはり意根である。それはあまりにも力強く、さらに「権限」も有している。意根を調伏してこそ、真の調伏と言えるのだ。
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