衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年02月25日    日曜日     第2 回の開示 合計104回の開示

夢中の覚受

ある人が夢を見て、自分の車が潰されて完全に消えてしまったため、夢の中で心が痛くてたまらなくなり、目覚めた後もまだ心の痛みが続いていた。この心の痛みはどこの痛みか。どの心の感覚受容が、これほど執着し固着しているのか。夢の中で心が痛んで目覚め、恐怖で目覚め、喜びで目覚めるのはなぜか。これらはすべてどの識の受容か。夢の中の意識と、夢の外の意識は同一なのか? 

意根は連続識であり、前世今生・夢の中も外も同様に存在する。眠りにつくことと目覚めることを主導するのは意根である。夢の中の心痛も現実の心痛も、必ず意根の感覚受容によって引き起こされ、さらに意根は身心の変化を引き起こすことができる。心痛を生じさせるものこそ意根である。意識が痛む時は非常に微細で、微風が海面を撫でるように漣も立たず、身心の反応を引き起こさない。

夢の中で意根は独頭意識の了別を通じて、夢境を現実と見做し、真実の境界であると認識する。そのため夢境に極めて執着し、ついに身心を動揺させ心痛の現象を引き起こす。目覚めた後も、意根はあたかもまだ夢中に浸っているかのように深く感応し、心に痛みを感じ続けさせる。夢中の独頭意識は既に変換されたが、意根は依然として夢境に執着し、独頭意識は夢中の境界を回想して感応する。この中で意根の感覚受容は根深く容易に変わらず、意識の感覚受容は容易に変化し、境遇に触れることで境界の影響を受ける。

ここから、意根の受容が完全に捨受ではないことが分かる。そうでなければこれほど大きな身心の動揺を引き起こすはずがなく、痛みで目覚めたり喜びで目覚めたり泣きながら目覚めたりすることもなく、目覚めた後も泣き続けたり喜び続けたり痛み続けたりすることはない。我見を断ち、感覚受容を断ち、覚知を断ち、意根の我見・感覚受容・覚知を断除することこそが最も困難であり、意識の全ての知見・感覚受容・覚知は容易である。

——生如法師の開示
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