問:俗に言う一心二用は、意識を指します。意識は同時に二つのことを考えたり行ったりできません。しかし意根は一切の法に遍く縁り、あるいは一つの法の攀縁が未だ完了していないうちに別の法を攀縁します。間隔が刹那で時間が短すぎるため、同時に複数の法を攀縁していると理解することもできます。この中で意識と意根を区別する好機ではないでしょうか。
答:世俗法で言う一心二用とは、一心が二つ以上のことに用いられると、用い方が悪くなり、精力が分散し、心が粗雑になって、了別が細かく明瞭でなくなり、思惟が明瞭でなくなり、智慧が出せないという意味です。実際には意識(六識)は二用や三用が可能です。普通の人の定力は非常に弱く、慧力も非常に弱いため、精力が少し分散すると六塵の境界を了別できなくなり、問題を考慮する際に細かく周到でなくなり、大雑把で適当、いい加減、わけがわからず、智慧が比較的低劣であるという様相を示します。
意識心が訓練されていない時は、あることをよく思量考慮しようとするなら、専一に思惟しなければなりません。そうしなければ考慮が明瞭になりません。意識が訓練され定力が良い時は、一心多用が可能で、同時にいくつかの法に縁っても、すべてうまく行うことができます。例えば世俗法で言う「眼は六方を観、耳は八方を聞く」というのはこのようなものであり、ただ非常に細かい思惟はできませんが、全体的にはすべてうまく手配できます。例えばある人は大事が差し迫った時に、往々にして非常に落ち着いて振る舞い、この時すべての精力と能力が動員され発揮され、様々なことを考慮し手配するのが非常に周到で、大脳が高度に回転し、仕事の速度が驚異的です。世俗人が仕事をする時も時々このようであり、各人の精力と能力は大きく異なり、定と慧にも違いがあります。
意根は同時に複数の法を攀縁でき、また刹那に連続して次々と絶え間なく複数の法を攀縁します。もしそれが六塵上の法を攀縁しようとするなら、意識は必然的にそれに従って了別します。したがって意識もまた複数の法を攀縁できます。意識と意根を区別するには、やはり主体性や決定を下す点で区別するのが比較的容易であり、習気、慣性、作用の上で区別しやすく、突然物事が発生した時に意識と意根の作用を区別しやすく、浅いレベルの心理作用と深いレベルの心理作用の上で意識と意根を比較的容易に区別できます。
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